40.誤解なんです
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
肺胞の一つ一つが膨らむように意識しながら酸素循環を目指していく。
一般的には深呼吸と呼ばれる一連の動作を行った無道は、思わず一言呟いた。
「空気が美味しいですね。」
所狭しと場所を奪い合うように生えている木々や苔。
そして、その糧であり育ての親とも言える腐葉土交じりの豊かな土壌。
森を構成する全ての要素が混じり合った冷たく湿った空気は、等しく全ての人間に安寧を与える。
…花粉症を引き起こす要因である花粉でも舞っていた日にはその限りではないのだが。
「ちなみに、森の空気を美味しく感じる要素の一つにフィトンチッドと呼ばれる物質があってですね。」
フィトンチッドとは植物が放出する殺菌作用を持った物質である。
基本的には毒なので、非常に高濃度のフィトンチッドになってくると人体にも影響を及ぼしかねないと言われている。
まあ、自然界でそのような環境が形成されることはまずないのであくまでノートの中の話なのだが。
それにしても、話の流れとしては身も蓋もない言葉である。
「…折角人が森林浴を楽しんでいるんですから、余計な茶々を入れないで下さい。」
そんな身も蓋もないコメントに、無道は思わず文句を返した。
「いや?随分浮ついてるみたいだから、水でも掛けておこうかなあと。あの人たちはあんな調子だし…。」
無道に冷水をかけたのは勿論カズヤ。
楽しんでいる所をぶった切る、なんともナンセンスな話ではあるが、それにはナンセンスなりの理由があるのである。
というのも、彼らを取り囲む環境の名は森林。
人間の営みから外れた、魔物たちの領域である。
毒蛇に毒虫、猛獣といった様々な危険魔物が、食うか食われるかで鎬を削り合っているのだ。
森林に入り込んだ人間たちも当然のことながらその食物網の中に組み込まれる。
そのはずなのだが…。
「ルークス様、チョコレートを作って来ましたの。はい、あーん。」
「あーん…。うん、やっぱりセイラの作るお菓子は絶品だなぁ!ライカとヒルデも貰って食べてみるといい。」
「今回の作品は中のヌガーにもこだわってみたの。はい、2人とも。」
「セイラ様、ありがとう!」
「もぐ、もぐ…。美味しい!大人の味って感じ!」
とまあ、勇者一行はこのように和みきっている。
緊張しすぎてガチガチになっているよりかはいいが、これではあまりにも緩すぎる。
「………マシーナリー。見ろ、ディオスクロイオオツノカブリダニだ。……コーディガントカゲを捕食している。」
副支部長は副支部長で、好き勝手にうろちょろと道を脱線しては知的好奇心を満たしている。
ただ、ハブられるのは嫌なのか、時たま、勇者パーティと比べれば比較的絡みやすそうなカズヤと無道に話を振ってくる。
真面目に周囲を警戒しているカズヤが馬鹿を見ているようだが、実際のところ必要以上に警戒しすぎるのは馬鹿なのかもしれない。
というのも、このパーティの構成員は豪華すぎるのだ。
カズヤは一旦置いておくとして、剣士の頂点に立つ勇者のルークスとその仲間3名、金級冒険者にして花級冒険者の副支部長テルキア、そして色々と逸脱している剣士の無道。
なんなら危険な魔物たちの方が尻尾を巻いて逃げ出しそうなメンツが勢揃いである。
見様によっては、銅級冒険者にして花級冒険者のカズヤの周りをガチガチに固めて護衛しているとも言えるのかもしれない。
一応フォローを入れておくと、冒険者の取るべき行動としてはカズヤが正解である。
出現する魔物が視界内に入る前に全て勇者パーティの弓兵によって討伐されていたとしてもカズヤが正解なのである。
…健気で可哀そうなので、これだけは言っておいてやろうと思った。
さて、彼ら精神樹捜索・伐採隊は現在、港町グレイハーバー及び隣町ネクストポートの北部にあるモヌケノカラ山脈を登っている。
グレイハーバー町を通る河川・ミガモ河を遡るように辿って行き、上流域に生育していると予想されている精神樹クリフォルートを伐採することを目的としている。
現在地点は高度500m地点。
3000m級の山々が連なるこの山脈から見れば、精々入口に立った程度のものである。
山歩きに慣れていない上、病み上がりの無道を気遣っての登山であるため、進みはそう早いものでもない。
途中でこまめに休憩を取ることも考えると、順調に進んだとして、クリフォルート伐採の前に一泊挟む必要があるだろう。
周囲の環境次第ではさらに時間がかかることになるだろうが、彼らの装備は武器と防具に小さなリュックサック程度とかなりの軽装だ。
とても野宿できるような装備に見えない。
それもそのはず。今回に限っては、テントや食材、重たい調査機材はカズヤのユニークスキル:アイテムストレージの中に収納されているのである。
ちなみに、アイテムストレージの中に入った物の重さはどういうわけか0になるのでカズヤには特に負担もない。
ユニークスキルの中では比較的よく見られるスキルだが、使い勝手の良さは随一かもしれない。
…カズヤは冒険者などではなくトランスポーターか引っ越し業者にでもなれば大成したのではないだろうか。
「まあ、後の祭りなんだけど…。」
そんな彼は苦笑気味にそう言った。
自分語りをしたかった訳ではなかったのに、話をせがまれてしまったからである。
「でも、カズヤの偉いところは才能にかまけず偉業を成し遂げたところです。」
慰めているという調子でもなく、純粋に賞賛を送る様子で無道が言った。
「偉業っつって、そんな大したことをやった覚えが無いんですが…。」
「ほら、難関の花級試験を一発通過したと聞きましたが?」
「ああ…。」
尊敬が眩いばかりに輝く無道の瞳…というと語弊があるか。
キラキラと輝く無道の右の義眼に見つめられたカズヤは、気まずそうに目を逸らした。
たしかに、アレが称賛されるというのはワタシも何か違うと思う。なんせアレは…。
バシャン。
「きゃあ!?」
と、後方から水の跳ねる音と悲鳴が聞こえた。
「あーあー…。大丈夫かい?」
勇者ルークスが慌てて声の元へと駆け寄っていく。
見れば、勇者ルークスの嫁の1人、もとい勇者パーティ所属の魔法使いが深めの水溜まりに突っ込んでしまっていた。
山歩きには明らかに適していなさそうな長いローブに足を引っかけてしまったらしい。
チョコレートに夢中で足元の確認を疎かにしていたのだろうか。
うーん、どんくさい。
分解されかけた枯葉で濁った淀みに突っ込んだものだから、深緑色のローブが焦げ茶と緑のツートンカラーになってしまった。
なんというか、臭いも相まって魔物に気付かれにくそうな迷彩への衣替えである。
「ありゃりゃ。災難だったね、ライカ。…副支部長、済まないんだが…。」
「………丁度いい、休憩にしよう。」
意外と空気の読める…というよりも、周囲の調査をしたくてたまらない様子のテルキアの一声により、小休憩を挟むことが決定した。
魔法使いの服が乾くまでの間、休憩を取ることになったわけであるが、休憩時間の過ごし方は三者三様である。
勇者一行はライカなる魔法使いを慰めるのに大忙しだ。
背の一番低いライカを、それよりも少しだけ背が高い弓兵のヒルデ、カズヤと同じぐらいの背丈のレイピア使いセイラ、無道と比べても指5本近く背の高いルークス。
一見すると彼らは親子のようである。
実際は旦那が1人と他は全員嫁なのであるが。
副支部長のテルキアは、用を足しに行くと言ったきり姿を消してしまった。
大方、道中で自分の専門分野である土壌中節足動物の調査などで油を売っているのだろう。
出発予定時刻である1時間後には戻ってきているといいのだが。
カズヤと無道も退屈な時間を潰すべく、散策に出ることにした。
「勇者様、僕たちは何か食べられそうな物でも探してきます。もし副支部長が先に戻ってきたら、伝えておいていただけませんでしょうか。」
別に勇者はカズヤの動向などに興味はないだろうが、勝手に居なくなって混乱を招くのも不本意なので話を通しておく。
「ん?ああ、行ってらっしゃい。気を付けるんだよ…、ってブドウ殿が居るなら安心か。あと、俺のことは気軽にルークスさんと呼んでもらって大丈夫だから。」
女好きのルークスは男女2人で抜け出すことについて特にコメントを残さなかった。
涙目で落ち込んでいるライカを慰めることに気を取られてしまっているようだ。
冒険者等級に換算して銀級以上の実力者が集まっているのだし、不覚を取るようなこともないだろう。
そんなわけでカズヤと無道の2人は、食べられそうな野草や獣肉を探しに森の中を歩きまわることにしたのだった。
モヌケノカラ山脈を覆う深い森林の植生は、高度によって様々な種類の植物たちによって構成されているため、バラエティに富んでいる。
またそのため、植生に応じてそこに住まう魔物たちも様々である。
種々の魔物たちが、自分を取り囲む環境を上手く利用しながら生活しているのだ。
例えば、高度の非常に高い地域では高木が生えることが困難だ。
代わりに、背の低い低木や草本、コケ類といった、背の低い植物たちが台頭しているのである。
すると、それら有機物資源量が限られてくることになり、そこに生息する草食の魔物も小型になってくる。
そして、その小型草食魔物を捕食する雑食の魔物や肉食の魔物も、餌が足りないので小型になる。
以前、2人が討伐したソードテイルウルフも比較的高山帯に住まう比較的小型な肉食魔物である。
その時は何故か高度2000m地点付近に生息する彼らが麓付近の林業林にまで下りてきていたわけだが、精神樹の存在が示唆された今になって考えてみると、彼らは精神樹の支配から逃れてきたと考えるべきなのだろうか。
話が少しズレたが、このモヌケノカラ山脈には様々な生態系が育まれているわけで、そこでは様々な食材たちが育まれているのだ。
「あ、カズヤ!キノコですよ!これは食べられる奴ですか?」
無道が枯木の幹から突き出した純白の錐体の集合体を見つけた。
フワフワとした菌糸によって根元が繋がっているこのキノコの名は、フウジンノヤジリタケという。
「どれどれ…。たしか、食毒不明菌だったかな。中毒例があるわけじゃないんだけど、食用にされた例もないってやつだね。胃袋によっぽどの自信があるなら持って帰ってもいいと思うけど。」
「…止めとこうかな。」
無道はむしろ消化器官が弱いタイプの人間である。
彼女はカズヤの忠告を受け止め、他の食材を探して辺りを見回した。
冒険者学校の入試勉強を頑張ってはいるようだが、いかんせん動植物の分類や特性を覚えるのは苦手分野らしい。
「でも、ブドウさんなら刀の腕だけでも余裕で受かりそうなもんだけどなぁ。なんなら、特待生枠も狙えると思う。」
いや、スキルによる補助もなしに勇者を剣で倒せるほどの逸材ともなると、特待生どころか首席入学生を狙えるのではないだろうか。
ある程度の知識が必要とされるとはいえ花級冒険者ほどではないのだから、金属級冒険者に一番重要なものは腕っぷしの強さである。
勿論、教養はマナーとルールの中で生きる冒険者にとっては切っても切り離せないものであるからこそ、入試の要素に教養が入っているわけである。
だが、普通に冒険者として生活する分には文字が読めて危険思想を持っていないことを証明できれば何ら問題ないのである。
とはいえ、座学のできる冒険者は信用されやすいのだが。
カズヤの言葉を聞いて、無道は頭を掻いた。
「な、なんだか正面から褒められると照れますね…。」
「あ、これは食べられる木の実だね。」
残念ながら剣の才能には恵まれなかったカズヤは、その仕草に少しムカついたので、近くに落ちていた植物の種子を拾い上げた。
褐色の硬い殻でデンプン質豊富な黄色い子葉を守るそれは一般的にドングリと呼ばれる木の実の仲間である。
ただし、大きさが成人男性の拳ほどになるが。
「…釣れないですね。ですが、私は分かっていますよ。今日のカズヤは妙に心を開いてくれていると。」
スルーされてしまった無道は、しかしニヤニヤしながらカズヤの肩をポン、と叩いた。
「ほう、その心は?」
「だって、ほら。いつもの中途半端な敬語が抜けていますよ。」
「……。」
そう言われてみればそうだ。
カズヤは顎に手を当てた。
心を開いている云々はともかく、敬語を忘れていたのは事実だ。
カズヤが人に森を案内しながら歩くのは、学者先生を相手にする時か、後輩冒険者に指導を行う時ぐらいである。
雑談しながら適度に気を張るというなんともゆる~い空気感が、どちらかというとその後者に近かったからなのかもしれない。
もしくはほぼ形骸化してしまった冒険者間の暗黙のルールを無意識下に意識していたのかもしれない。
「暗黙のルールですか?」
やたらあざとく首を傾げる無道。
身長の高い女性がやるには些かキツい動作だが、美人がやれば様になっているように見えるのだから、なんともズルい。
「どうでもいいような話なんですけどね。昔の冒険者達はやたらとパーティ内の結束を大事にしていたみたいで…。」
冒険者ギルド黎明期の話。
冒険者というこれまでになかった職業を束ねる規則を作り出すために、冒険者ギルドは他の職業ギルドを参考にして草案を作り出した。
推敲の過程でよほどトンチンカンで無意味な条項は削除されたものの、やはり勝手が分からないものだから、幾つか首を傾げるような条項が議会を通過してしまったのだ。
さすがに、無意味で必要ないものは組織化の進行につれて消えて行ったものの、幾つかの『効果的にも邪魔にもならない項』が『冒険者の伝統だから』という理由で残されていった。
52年前のギルド規則再編に至るまで、その可もなく不可もない条項は残されることになったわけだ。
「ふむ。では、52年前に起きた出来事で、そういったどうでもいい伝統も消された。しかし、100年近く残っていたそれらを消し去ることはできず、今もマナーとして残っている。こういう事ですか?」
「あくまでほんの一部の話ですけどね。本当にどうでもいいような奴は条文に残っていても無視されてたみたいですし、それに準じて処罰するようなこともなかったみたいです。」
逆に、冒険者という独特な職業に特有の空気感を作り出す『伝統』として無視されなかった条文だけがマナーとして残ったのだ。
さて、ここでやっと話が本題に戻る。
そんな同調圧力というか共通認識を作り出すために冒険者間で愛されてきた条文の一つに、『永続パーティ・臨時パーティに関わらず、同じパーティに所属する冒険者は敬語を使うべからず』という物があったのだ。
冒険者界隈に貴族や勇者も参入するようになった現在の環境では、さすがに“誰でも分け隔てなく”、というようにはいかなくなった。
下手をすれば無礼討ちである。
だが現在、パーティを組んだ冒険者同士が仲睦まじくあろうとするのは、背景にこの形骸化した暗黙のマナーがあるからなのである。
ちなみに、勇者ルークス氏は冒険者資格を持っていない。
今回の調査には参加していないパーティメンバーの仲介や支部長との縁故があって精神樹調査に参加しているだけに過ぎないのだ。
それにも関わらず、臨時のパーティメンバーとなったカズヤを信用して荷物を預けてくれたり、自身を名前で呼ぶことを許可してくれるなど、冒険者界隈のマナーを理解してくれている点で好人物であると言える。
ただし女癖に関してはノーコメントで。
「ほほう、それは……いいね。」
「何です、その喋り方。」
話を聞いて、好機とばかりに敬語を取り除こうとする無道。
だが、違和感が物凄い。
カズヤはそんな不器用な無道に呆れてしまった。
「あ、またあった。ほら、ブドウさんも拾って。これはジャイアントカスタノスって言うんですけど、火を通すだけで食べられるドングリなんですよ。食べやすいだけじゃなくて可食部も多いから、拾えるだけ拾っておきましょう。」
「大きいドングリです…だね。………正直な話、暫く敬語ばかりだったので友達言葉の使い方を忘れてしまっていて。」
シエルラと話す時もジゼルと話す時も、確かに無道の語尾は敬語だったように思える。
そういうタイプの人間なのかと思いきや、どうやらカズヤ達に出会うまでは敬語抜きの喋り方が主だったらしい。
敬語と言えば、シエルラも常時敬語を使っている。
ジゼル以外は基本的に常に敬語を使っている一行なので、注釈を付けないと誰が発言しているのか分からなくなってきそうだ。
「まあ、別にあんたがどんな喋り方しようと勝手だけど。…それにしても、『中途半端な敬語』とは随分な言い様ですね?」
「う…いや。実際、中途半端じゃな…い?」
…正直わかる。
ともかく。
2人はそんなことを言い合いながら、ジャイアントカスタノスの実をかなりの量拾い集めた。
あたりにドングリの帽子ばかりが散乱するようになったころ、出発予定時刻が迫って来ていた。
急いで待ち合わせ場所まで向かうと、2人以外のメンバーは既に揃っていた。
「………お前らがナニをしようが勝手だが、作戦に支障をきたすようならばそういうのは慎め。………節度があるならば、やるなとは言わん。」
一見すればなんだか1時間前よりも親密になっているように見えるカズヤと無道に、副支部長は要らぬ誤解をしているようだ。
目を逸らしながら気まずそうにそう言っていた。
無道は副支部長の誤解を面白がっているようで、それに対して思わせぶりな態度を返している。
勇者ルークスと彼の仲間たちは黙って微笑んでいるが、それは自分たちが“そういうの”なのでコメントをしづらいだけなのである。
この手の誤解は否定しようが無視しようが解決することはない。
カズヤは今後、誤解されるようなことは無かったということを如何に証明するかで頭を悩ますことになるのであった。




