24.短いようで長い夜話
船が港を出た翌日。
薄い掛布団に潜り込むようにしていたカズヤは、何やらすべすべしたものに顔を叩かれて目を覚ました。
「ふぁ…どうしたんでふか?」
あくびをかみ殺しながら、顔にかかる尻尾を払いのけるカズヤ。
花と土の匂いに、磯と蒸れた靴の匂いが混じったような臭気を纏っているそれは、言うまでもなくシエルラの尻尾だ。
なにやら深刻そうな顔をした彼女は、小声で彼に話しかけてくる。
「カズヤ君、生まれて初めて便秘になったかもしれません。」
「出てってください。」
聞くや否や。
再び彼は蒲団を引っ被った。
まあ、出て行けもなにも、3人の使う船室は同じなのだが。
それぞれのベッドが仕切りで区切られている程度のプライバシーしか、存在していない。
ついでに、船室内の設備について描写しておこう。
彼らの使用している船室は、船の真ん中より少し後ろ側に位置している。
広さは大体6m×11m程度で、宿屋の一室ならば4人ぐらいならゆとりを持って過ごせそうだ。
なかなかに広い。
薄水色の壁紙には、嵌め殺しの丸い窓が1つ付いている。
だが、へりにロックタートルノテと呼ばれる固着性の甲殻類の仲間が付いており、すこぶる見た目が悪い。
それに、窓から見える景色など、海ばかりだ。
家具として、天板の中央がガラス張りの机が1卓、それを囲むように4脚の椅子が備え付けられている。
最大で4人が部屋を利用することを想定されているらしい。
ベッドが3台備え付けられているのに加え、カーペットの色が長方形の形で新しい箇所が1か所。
おそらくは、そこに4台目のベッドが置かれていたのだろう。
ベッドの枕元には、スイッチ式のランタンが備え付けられている。
スイッチを捻ると、可燃性のガスがガラス球内に流れ込み、内部の炎魔法を刻印された魔石に反応して火が灯るという仕組みだ。
壁にはランタンの他に、時計と本棚が埋設されている。
また、壁際に衣装棚が置かれている。
だが、カズヤはアイテムストレージのスキルでどうとでもなるし、シエルラは雑多に色々なものが詰め込まれた雑嚢袋を使っている。
一番荷物の少ない無道が、結果的に独占するような形で利用しているのである。
さて、そんな無道は現在ぐっすりと眠っている。
先日の失血が響いているようで、栄養剤の点滴を受けながら、ベッドの上で横たわっているのだ。
時たま、「和音…」と離れ離れになってしまった妹の名をうわごとのように呟いている。
ちなみに、無道が特別寝坊をしているというわけではない。
現在時刻は深夜2時。
徐に起き出してきたシエルラが、文字通りカズヤのことを尻尾で叩き起こしたのだ。
「起きてくださいってば。お腹が圧迫されて、眠れないんですよう…。」
切なそうな声で懇願するシエルラ。
彼女は、掛布団の端を掴んで、引っぺがそうとする。
しかし、布団を奪われまいと力を込めるカズヤはベテラン冒険者。
薬師の女性程度の腕力には負けはしない。
「くっ…。思ったよりも逞しいですね。こうなったら最後の手段です!」
最後も何も、さほど試行回数は多くない。
ともかく、シエルラは最終手段こと、ボディプレスを行った。
上半身は人間の女性と変わらずとも、下半身には大蛇のごとき尻尾が付いている。
…いや、上半身にも立派な肉塊が付いている分、普通の女性よりかは重たいのかもしれない。
そんなことはさておき、不穏な空気を感じ取って横に転がることで回避したカズヤ。
結果的にベッドから降りることとなってしまったのだった。
「…何なんですか、一体。身体の不調を治療するのは、シエルラさんの専売特許でしょう。」
彼は苛々しつつも、話を聞くためにランタンの火を灯した。
眠っている無道に配慮して、小さな灯りだ。
「お休みのところ、ごめんなさい…。でも、私にとっては火急の用なんです。」
テーブルの傍の椅子を一脚持ってきたシエルラは、ベッドに座るカズヤの対面にそれを置いて腰掛ける。
「なんで真ん前に座るんです。なんだか気まずいじゃないですか。」
食堂で見知らぬ人と相席になった時のような居心地の悪さを感じながら、カズヤは言った。
「だって…。ベッドの隣に座ったら、これからおっぱじめるみたいじゃないですか。さすがの私も、ちょっと恥ずかしいですよ。」
「あなたは何を言ってるんですか?」
50年もの間、喪女…、というか老人のフリをして生きているうちに頭の中がお花畑になったのではないか?
カズヤは最近、シエルラを見るたびにそんなことを思うのだった。
「冗談はさておき、お通じが来ないんですよ…。多分、最近の食生活が海産物中心になったのが原因だと思うんですけど。」
「なんだかこちらを責めているような言い方ですけど、好き勝手に貪ったのはシエルラさんですよ?」
「まあ、そうなんですけど。」
シエルラの推測によると、初めての海に、調子に乗って食べ慣れない魚や海藻ばかり食べていたことが良くなかったらしい。
そのことで腸内細菌のバランスが狂ったのが一番の原因なのではないかということだ。
「その割には、似たようなものを食べていた僕とキフさんは何ともありませんが。」
「普段の食生活と腸内細菌は密接な関係にありますからね。いつも食べているものを消化しやすいような組成になるみたいですよ。」
カズヤの疑問に、シエルラは眼鏡をくいっと上げながら答えた。
竜の亜人の中には、夜目がききにくい体質の者が現れることがある。
シエルラもその中の一人である。
彼女が今掛けている眼鏡は、夜間の視力を得るためのものなのである。
「あとは遺伝ですね。腸内のにいる菌たちがどうやって子どもに遺伝していくのかには諸説ありますが、腸内細菌の組成は遺伝するみたいですよ。」
「へー…。それで、なんで僕が起こされたんです?」
そんな豆知識を聞き流して、カズヤは話の続きを促した。
「そうでした。カズヤ君、オオトゲバコの根っこを持っていたりしませんか?」
シエルラが言っているのは、民間の便秘薬として重宝される草の根だ。
「あるにはあるけど、この部屋で調合するんですか?匂いが籠るのでやめてほしいんですけど…。」
露骨に嫌そうな顔をするカズヤ。
オオトゲバコの根は、煎じて飲めば胃腸にあまり負担を掛けずに効力を発揮する。
しかし、煎ずる際に発せられる独特の臭気はあまり心地よいものではない。
濃厚な腐葉土の匂いに酢酸のツンとくる匂いを混ぜたようなその臭気が狭い船室の中に籠るのは、地獄の窯の蓋か、魔女の大釜の蓋が開いたようなものだろう。
「調合もなにも、火元がないじゃないですか。お願いしますから、早く分けてください…。」
シエルラの悲痛な懇願に、カズヤは仕方なくといった様子でアイテムストレージに腕を突っ込む。
「とりあえず、それが一番状態が良さそうなやつです。この時間は厨房も閉まってるでしょうし、魔石コンロを貸してあげますから、甲板に出ましょう。」
小袋に小分けにしたオオトゲバコの根をシエルラに手渡したカズヤは、ベッドから立ち上がる。
「ああ、いえ。それには及びませんよ。」
それを手で制止したシエルラ。
彼女は、小袋の中から一番太い根を取り出すと、口に頬張った。
「もぐ、むぐ…。ごくん。あんまり美味しいものではないですね。」
一息にそれを飲み込んでしまった彼女を見て、カズヤは思わず閉口した。
「さて、あとはちょっと体を動かさないとですね。風に当たってきます。」
彼女はそのまま、上着を羽織って船室の外に出ようとする。
「あ、えっと。…一応、お供しますよ。」
動きを止めていたカズヤだったが、扉を開けた彼女を追って、部屋の外に出た。
◆
寝静まった船内に響くのは、壁に遮られてくぐもった波の音ぐらいだ。
それゆえに、カズヤの靴音がよく鳴り響く。
それに対して、脚を使って移動しないシエルラは、足音をほとんど立てない。
2人は甲板に出た。
風はほぼ凪いでおり、少し蒸し暑い夏の大気が2人を包んでいる。
空には夏の星が燦然と輝いている。
…まあ、そうは言っても、ランタン無しには歩けない程度には暗いのだが。
「あの4つの星を結んだ台形が、航海士の星って呼ばれている星座ですね。ってなんでこんなロマンチックな会話してるんだろう。」
転覆した船のような形を指で示したカズヤが、すぐさま真顔で自問自答をした。
転覆船が航海士の星というのも、なかなかに縁起が悪そうなものだが果たして。
さて、そんなカズヤの蘊蓄に対して、シエルラはというと。
「うーん………。星ってそんなに見えた試しがないんですよね。太陽と白月と赤月、あとは2等星よりも明るい星じゃないと。」
カズヤの指先を眼鏡越しに見つめるシエルラは、夜目がきかない。
カズヤがシエルラの散歩に同行したのも、暗がりで転んだり体をぶつけたりと、何か事故を起こして怪我をするのではないかという危惧が一番の理由だ。
「本当に厄介な体質だなぁ…。王都に居た時とかは、夜間の診療とかどうしてたんです?」
空を指していた腕を、だらんと手すりにもたれ掛からせたカズヤが言った。
「王様一族以外のお仕事は断っていましたよ。どうしてもすぐに治療が必要という方は、私の薬屋じゃなくって病院に行かれますからね。」
月明かりを反射する海面を睨むような目つきで眺めていたシエルラは、そこでカズヤに目を向けた。
夜闇に紛れた彼の顔は、おそらく彼女には見えていない。
「シエルラの伝記:王都編に興味がおありですか?長編のわりに、面白くないんですけど。」
「なんでそんなに卑下するんです。…キフさんが起きてるときにでも聞かせてください。そんなことよりも、お腹の調子はどうです?トゲバコは効いてきてますかね。」
大長編をやんわりと断ったカズヤは、シエルラに体調を尋ねた。
「まだまだですね。オオトゲバコの根をそのまま服用したときって、わりと即効性があるはずなんです。ただ、効きだしたら口が臭くなってきて、ゲップがすごい出るようになるんですよ。」
淡々と言うシエルラだが、そうなった様子を想像してみるとなかなかに品がない。
臭いゲップを連発する彼女の姿を想像したカズヤは、首を横に振るってそのイメージをかき消した。
「叩き起こされた時には腹が立ちましたけど、今となっては人がいない時間帯に言い出してくれて本当に良かったと思っていますよ。あとは、その配慮を僕に向けてくれれば完璧でしたね。」
皮肉を混ぜつつ、カズヤはそう返した。
「シエルラさんって、デリカシーが欠けていますよね。」
「まあ、伊達に203年も生きてないですからね。純人間の寿命から見れば、ババアもババア、大ババアみたいなもんです。これだけ生きていれば、倫理観もズレてきます。」
コロコロと笑うシエルラだが、竜の亜人の平均寿命はゆうに10世紀を超えるとも言われている。
2世紀程度しか生きていない彼女は、竜人からしてみれば、ロリっこもいいところなのだ。
まあ、こんなに発育のいいロリがいてたまるかと筆者は思う。
「カズヤ君は、上京してからここまでの間に、何か面白いことがあったりしなかったんですか?ほら、付き合ってたあの子との出会いの話とか。」
嬉々として黒いかもしれない歴史を掘り返そうとするシエルラ。
彼女は、純人間の寿命は短いが、その短い間に多くの出来事が詰め込まれていることをよく知っているのだ。
「…それこそ、何の面白い話もないですよ。上京してすぐに奨学金で冒険者学校に通って、急いで卒業してからずっとクエストですよ。」
受付嬢との恋愛の話を意図的に割愛しながら、カズヤは暗がりで肩をすくめた。
「冒険者学校っていうシステム、私が冒険者資格を取った時にはなかったんですよね。どういう感じだったんですか?」
かつて冒険者資格分類として存在していた、魔法使い枠資格を所持しているシエルラ。
当時の冒険者ギルドでは、新人育成という概念が乏しかった。
その代わりと言うべきか、書類審査と簡単なテストにさえ通れば誰でも冒険者になることが出来たのだという。
「なんてことはない、専門学校みたいなものでしたよ。座学で冒険者の心得やルール、魔物学の概略を学んで、戦闘訓練をしたり実地研修をしたりですよ。」
少し懐かしそうに、大雑把な冒険者学校の概要を語るカズヤ。
「実地訓練は一応、簡単なクエストという扱いなので、報酬も出るんですよ。木級冒険者でも生活費や学費を稼げるのはいいシステムと言えるかもしれませんね。」
カズヤ自身も、実地訓練で得られた報酬を花級冒険者資格を取るための参考書の購入費用の足しにしていたのだ。
「ちなみに、花級を取るためのカリキュラムはなかったんですよ。勉強法の講座や模試なんかはありましたけど、基本的には独学なので中々大変でした。」
「カズヤ君は勉強家だったんですねえ。」
偉い偉い、とカズヤの頭を撫でようとするシエルラ。
やはり、暗い中では距離感も掴めないのだろう。
伸ばした手が虚空を切りかけたあと、ぎこちなくカズヤの肩辺りを撫でた。
「偉いも何も。あんなの、ちょっと勉強していればどうとでもなるもんですよ。やってることは金属等級の方で勉強することの延長ですし。」
体をよじってシエルラの手を躱したカズヤは、そのことで何かを思い出したかのようにげんなりとした顔をする。
「そういえば、知り合いの銀級冒険者のことを思い出しましたよ。」
彼は、どこか懐かしそうに、一方でどこか疲れたように当時のことを語り始めた。
「冒険者学校を卒業してすぐ、…つまりは鉄級冒険者になったばかりの事です。当時の僕は、同期の鉄級冒険者2人とパーティを組んで、狩猟系のクエストを中心にこなしていました。」
冒険者になりたての者には採取依頼が一番だと宣う者もいるが、一概にそうだと言い切ることは出来ない。
わざわざ採取依頼を出してまで求められる素材は、それこそシエルラのような薬師や一部の研究者のような、ある程度の品質を重要視する依頼人が求めるものだ。
民間から出された依頼ももちろんある。
だが、そういった依頼でも、ちゃんとした品質のものを提出しなければクレームが送られてきて、次の依頼が回ってこなくなってしまうことがあるのだ。
冒険者学校を卒業したとはいえ、圧倒的に経験値の足りない新米冒険者がこのような採取依頼を受けた場合。
新米たちは依頼書で求められている品質を理解できていなかったり、採取しても保存方法を間違えて劣化させてしまうことが少なくない。
結果、依頼失敗となってしまうこととなるのだ。
だからこそ、ベテラン冒険者から知識を学んでいきつつ、採取依頼に慣れていくのが一般的なのである。
前置きが長くなったが、ゆえに新米冒険者だけで構成されたパーティは採取依頼ではなく、弱い魔物を討伐する依頼を受注することが多いのだ。
「そんなわけで、ローラットの駆除やヨワイシカの群れの間引きみたいな依頼ばかりを、そのパーティで受けていたんですよ。パーティ契約は全員の装備更新までって話で、前衛剣士の僕と、クソエイムだけど索敵能力の高い弓使いの女の子、光魔法が得意な魔法使いの男の子の3人で組んでました。」
なお、弓使いはあまりのクソエイムに心を病んで、1回目の装備更新の際に冒険者を辞めたのだという。
冒険者を辞めた彼女は、所属していたギルドの事務員として再就職したらしい。
そんな彼女こそが、後の王都第三支部の気だるげな受付嬢であるが、それは別の話。
「なるほど、つまり、その魔法使いの男の子が先に銀級に上がっちゃったって話ですね?」
的を得たり、といった顔で頷くシエルラ。
「いえ。確かに、彼は僕よりも先に銅級に上がりはしたのですが、調子に乗って受けた身の丈に合わないクエストを失敗して亡くなってしまいましたよ。」
自身の実力を過信して失敗するのは、新人冒険者にありがちな事故である。
「僕たちのパーティを気に掛けてくれていた、指南役みたいな方がいたんですよ。」
第三支部の中でもエースとして名を馳せていた女性スカウトの顔が、カズヤの脳裏に浮かんだ。




