19.泳がない
無道はあの後、風呂から出てきたシエルラにも冒険者になりたいという話をした。
シエルラは特に驚くこともなく、その話を最後まで聞いていた。
「良いと思いますよ。」
話を聞き終えたシエルラが無道に言った。
「ただ、そのつもりでしたら、この世界のことをもう少し勉強していったほうがいいかもしれませんね。」
100年ほど前に故郷・亜人の国で冒険者資格を取ったというシエルラは、後輩に向けてそうアドバイスした。
「さあ、最終日ですね。」
翌朝。
彼らがこの漁村に滞在する最終日だ。
シエルラが急に声を上げたことに、訝しがるカズヤ。
彼は、イカフライを挟んだサンドウィッチを齧ろうとした口を一旦閉じると、右手に持ったそれを皿の上に置いた。
「さあ、最終日ですね。」
「いや、聞こえてないわけではないんですよ。」
なぜかもう一度同じ言葉を同じイントネーションで言ったシエルラに、カズヤは仕方なさそうに反応してやる。
最終日だからといって、何かがあるわけではない…はずだ。
買い物は済ませてあるし、宿代も払い終えている。
カズヤは海馬のメモ帳を繰ったが、とくに記載されているようなことはなかった。
「何かありましたっけ。宿代なら払ってありますけど。」
「いや、せっかく海に来ているんですよ。泳ぐべきなのではないですか?」
さも当然かのように宣うシエルラ。
徐に上着を脱ぎだした彼女が下に身に着けていたのは紺色の上下一体型の水着だ。
胸元には白い布が貼られており、そこに書かれた『しえるら』の文字が大きく歪んでいる。
「人が朝飯食ってるときに変なもん見せないで下さいよ。」
顔を顰めるカズヤは朝食中。
無道はトイレに行ったっきり戻ってこない。
「変なもんとは失礼ですね。夏ですし、泳ぐべきだと思うのです。」
冒険者学校の水泳訓練でも用いられているその水着の名はスクール水着。
もしやシエルラは1世紀前の冒険者学校生時代の水着を持ってきたのだろうか。
カズヤの心はそんな疑問で満たされていた。
「というか、この辺で泳げそうなところなんてないでしょう。そもそも、泳げるんです?」
カズヤの脳裏には、浅瀬で溺れかけるシエルラの姿が幾つも幾つも横切った。
「ビーチがあったじゃないですか。漁師さんたちが底引き網漁をしてたビーチが。」
シエルラはそう言って海の方角を指差す。
「底引き網してる横で、泳ぐんですか?怪魚かなんかだと勘違いされちゃいそうだなぁ。」
色合いといいシルエットといい、遠目から見ると、リュウオウノツカイという魚に似ているなぁ。
にょろにょろとしたシエルラの尻尾を見てカズヤはそんなことを思った。
「怪魚って言うか、シーサーペントかウミヘビじゃないですか?それはそうと、常夏の海の中を見てみたいんですよ、私は。」
シエルラはそう言うが、別にこの辺りの気候は常夏という感じではない。
地味なカラーリングの魚に、海藻の生えた岩がこの海域の景色だ。
「うわっ、何ですかそのスク水?!ぱつんぱつんじゃないですか。」
戻ってきた無道がシエルラの胸元を見て驚いた。
「あ、ブドウちゃん。遅かったですね。うんちですか?」
「シエルラ!?」
薬師シエルラからすると、旅仲間の御通じ事情は快調なほうが頼もしいようだ。
「シエルラさん、泳ぐ気なんだってさ。」
紳士というか興味がないというか、そんな会話を無視してカズヤは無道に説明した。
「え、正気ですか?」
狂人を見るような目で、無道はシエルラを見た。
「釣りをして分かったんですが、この辺りの海流は日本海みたいですよ?って言っても伝わらないんですね。この辺の海水は大分冷たいみたいですよ。」
前世の釣り経験を活かしたコメントをする無道。
……日本海っていったい何なんだろう?
「えー。でも、だいぶん暑くなってきましたよ?川では普通に水浴び出来てましたし。」
不服そうにシエルラはそう言う。
確かに、外気温はかなり上がってきていて、初夏というよりかは初夏と盛夏の中間といった感じだ。
とはいえ、それは森の中に流れる川で水を浴びるのに丁度いいという程度の暑さでしかない。海はまた別の話だ。
「この辺りの海域は寒流の影響を強く受けているようです。この世界の地理には疎いのですが。多分、泳ぐのはやめておいた方がシエルラのためになるかと。」
シエルラが寒いと動けなくなるという話を聞いていた無道はそう言った。
「でも、海女さんたちは普通に泳いでましたよ?」
シエルラが引き合いに出した海女。
泳ぎやすい格好に、採取道具のカギと採取品を入れる袋だけを持って海中を縦横無尽に泳ぎ回るプロ達だ。
「あの方々は、プロですからね…。冷たい海中でも長時間泳いでいられるように訓練しているんだと思います。」
無道の言う通り、海女たちは長年の活動で、水中での行動に慣れているからこそ仕事が出来ているのだ。
それに、彼女らの中には竜人のような爬虫類系の亜人など、低温で動きが鈍るような人種が居ないのだ。
「でも、泳いでみないことにはわかりませんから。もしかしたら、才能が開花して素潜り漁師に転職できるかもしれませんし。」
それでもなお食い下がるシエルラ。
薬師から素潜り漁師とは、なんとも大胆な転向だ。
「…そんなに言うなら、試してみるといいかもね。」
これは何と言おうと諦めそうにないな。
そう思ったカズヤは、聞き分けのない彼女に痛い目を見させることにした。
「朝飯食ったら、件の砂浜に行ってみましょうか。」
さて、そんなこんなで一行は砂浜にやって来た。
朝食の時に言っていたように、漁師たちが底引き網漁で獲れた魚を選り分けている。
一人の漁師が、近づいてくる彼らに気付いて手を上げる。
「お、老師様に薬草のあんちゃん、あと釣りの姐御じゃねえか!漁の見学か?」
港町までの道中にあるこの村には観光客もやって来る。
観光客たちは、漁の様子を見たり体験したりするのだとか。
「丁度、プルメイカの新鮮なのが獲れたぜ!捌いてやるからちょっと食ってみなよ。ホタテもあるぜ!」
ガタイのいい禿げ頭の漁師は、バケツの中に入ったプルメイカを取り出す。
9本もある足が付いた頭と胴を切り離し、筒状の胴に一本の切れ込みを入れる。
透き通ったガラスのような骨とエラを胴から外し、表皮とヒレを剥がす。
「このエンペラがコリコリしててうまいぜ!」
ヒレをエンペラと呼ぶらしい。
透き通った胴の肉に細かい格子状の切れ込みを入れると、引き締まった身の上にたくさんの正方形が浮き出してくる。
半透明のそれを麺のように細く切ったものを、漁師はまな板の上に盛合せる。
「あとは、この肝に醤油をかけて、と。」
ゲソから取り外され、墨袋を取り除かれた黄褐色の肝を、北方発祥の調味料である醤油に溶かしていく。
むしろ、肝の方が貴重な醤油よりも多いくらいなのである。
「そらできた!」
プルメイカの刺身、肝醤油和えの完成である。
「ところで老師様、なんでそんな妙な格好してるんだ?」
刺身の乗ったまな板を差し出した彼は、シエルラの水着姿に今更ながら突っ込んだ。
「この世界にも醤油なんてものがあるんですね…。しかも、この食べ方は私の故郷のイカの食べ方とまったく一緒です。」
豪快に指でプルメの刺身を摘み、肝醤油にたっぷりつけて口に運ぶ。
無道は目を細めながら…元々細い目をしているんだった。細い目をさらに細めながら刺身を旨そうに食べている。
「この人、泳ぎたいらしいんですよ。あ、僕もいただきます。」
カズヤもプルメを肝醤油につけて食べる。
濃厚な肝から広がる磯の風味にこってりとした脂の旨み。
アミノ酸は甘いと言うが、甘くて下に貼りつくような旨みが豊富なその身は、まさに体の求めている物を食べているという実感を伴って味蕾に訴えかけてくる。
「え、ここで泳ぐんか?止めといたほうがいいぜ。この時期はクラゲがヤベエ。そら、こいつだ。」
禿げ頭とは別の漁師が、シエルラの大きな胸に釘付けになりながら言った。
彼は、一か所に固められた複数のバケツを指差す。
「うわぁ…。」
それを覗き込んだ無道が顔を青ざめる。
10個はありそうなバケツは、すべて紫色の模様のある、触手の長いクラゲで溢れんばかりだ。
「グラビトってんだ。刺された所の魔力が暴走して、そこが重力魔法を食らったみたいに重くなるからそういう風に呼ばれてんだぜ。」
シエルラの胸を凝視する漁師とは別の漁師が、赤い頭の魚を選り分けながら言った。
「ちょっとシエルラさん。見てくださいよ。」
カズヤは顔を顰めながら砂浜と、その先の海を指差す。
砂浜には幾つものグラビトクラゲが打ち上げられてカピカピになっており、水面にはその赤紫の傘が無数に浮かんでいるのが見える。
「たしか竜人って、魔力が高いんじゃ…。刺されたらヤバそう。」
竜人族の特徴として、基礎魔力が高いことが挙げられる。
魔力の高い者ほど、魔力暴走の危険性は高い。
これは、泳がせるまでもないかな。
カズヤは横目でシエルラの顔を見た。
「………。」
もはや無言なシエルラの目には、光る雫があった。
不貞腐れたシエルラはその日一日中、宿の部屋に籠って調合をしていたのであった。




