逆ギレしてスッキリ
迷う時、外に出てみましょう。道は必ず何処かへ通じているものです。
歩いてみれば色々な物に出会うでしょう。良かれ悪かれ。そうして行けば、見えていたものが見える。
迷いごとが解決するわけではないんですけどね!
分かれ道にやって来た。確か左に曲がると駅に近い大通りに出る。右に曲がれば国道沿いのやや暗い通り。後ろに戻れば見知った通りに出る。知らない道を通ることは、少し怖く。そのせいで蛮勇が顔を出す。そして最後に訳知り顔が現れてこう言うのだ"別に行く必要もない"だから行かない。しかし。
傘をアスファルトの上に突き立てる。そしてそっと力を抜いた片手で倒れないように押さえる。風もない。力も入れていない。押さえていた手を上へ上げる。傘は少しだけ躊躇うように立ち尽くして、目の前の壁を差して倒れた。
この壁の向こうは何だっただろうか。確か、古い民家がある。石を積んで組んで出来た壁は、自分の目線より少し高く立っている。地面から緑の侵略者が彼を襲って、その体を縦横無尽に覆い尽くそうとしている。そして小さな虫達がその灰色の上を我が物顔で占拠している。その中には毒々しい色をした毛虫も混ざっていた。訳知り顔がまた現れる"行く必要もないだろう"だから行くのを辞めようか。でも。
後ろを振り返る。車が走り、自転車が走り、歩く人がいて、走る人もいる。明かりに惹かれるように二三歩進む。舞台の上には沢山の演目が展開され、互い違いに関わったり関わらなかったりしながら、その物語が進んでいく。演者しかいないその舞台の上。下にいるのは観客ではなくまた別の演者で。それなら自分は。横にいる自分の役名はなんなのだろうか。訳知り顔が現れて言う"お前はお前だよ"その通りだ。だが。
壁に向き直る。灰色のキャンパスの上には、ばらまかれたように緑が見える。また、ここからでは見えない大量の点と、ここからでも見えてしまう警戒色が描かれている"行く必要もない""行きたくもない""馬鹿なことをするな"なるほどその通りだ。横を見ると、地面には小さな水たまりがある。汚い水たまりだ。映る顔も汚く見える。何かが湧き上がる。暗くてよく分からない感情で。大き過ぎて目に入らない感情で。容易く目を逸らせる感情。訳知り顔が言う"どうせやったところで何も変わらない"だからしない。だがしかし。
足は動き出した。壁との距離をぐんぐん詰める。勢いをつけて跳ぶ。爪先がブロック塀の上に乗り、次いで両手をそれにかけ、一気に乗り越える。背の高い草が出迎えてきた。名前も知らない小さな虫が不快な羽音を立てて飛び回る。緑に呑まれかけた家屋が目の前に聳え立っている。街中ではめったに嗅ぐこともない、何の手入れもされていない緑特有の悪臭が鼻を刺す。足の裏からは中途半端な柔らかさがスニーカー越しに伝わってくる。来なきゃ良かったと心の底から思う。臭いから逃げるように、不快な羽音に追われるように、嫌な感触を感じる時間を少しでも短くするために。視界の向こうにある出口を目指して歩き出す。その時、扉の開く音がした。家を見る。見える限りどの扉も開いちゃいない。いや、というよりこの建物には誰も住んでないはずだ。知り合いが肝試しだとか廃墟探索だとか言って中に入ったという話を聞いたが、誰もいないと言っていた。気のせいか。それか聞き間違いだ。何故こんな見知った通りの近くで恐怖体験しなきゃいけないんだ。怯えた顔が言う"さっさと出よう""元々こんな場所来たくもなかった"その通りだ。だけれども。
そっと、腐った縁側の上に足を載せる。思った通りすぐに嫌な音がしたので、足を降ろす。幅広の葉が覆い尽くしたガラス戸に手をかける。力を込めて見ると、幸か不幸か戸が動いた。開けてみれば、実に汚い部屋が見えた。土か埃か分からない何かがうっすらとカーペットやフローリングの上を覆っている。端々が黄ばんだ壁紙が囲い、中の見えない戸棚が寄りかかっている。少し呼吸するだけで咳が出そうな埃っぽさが、入る前から分かる。怯えた顔が言う"やめよう"訳知り顔が言う"行く意味が無い"心配した顔が言う"やめろ"それでも。
そっと足を踏み出した。足裏が床の思ったよりも不安定な感覚を伝えてくる。だが、行けないほどではない、とも言う。体重をかける。木が軋む嫌な音がする。片足が上がる。全体重がかかる。木が割れるような小さな音が続く。片足を床に載せる。廃墟の床の上に両足が揃った。嫌な音は相変わらずしているが、歩く分には問題がないように思えた。そっとガラス戸を閉めたところでふと思い出す。
両手を胸の前で合わせて、目を閉じ一礼する。心の中で呟いた。お邪魔します。土足で失礼します。
外から見るとこの家は二階建てだった。入りこんだ一階を歩いてみる。台所、トイレ、風呂、玄関、侵入した場所のリビング、そして誰かの住んでいたであろう和室。上着で簡単に口を覆ったが、それでも分かるほどのすえた臭い。大量の埃。吐いた息をそのまま吸うようなマスクが、その不快感をより強い物にする。怯えた顔が言う"警察でも呼ばれたら捕まってしまう"訳知り顔が言う"さっさと出るべきだ"それはそうだ。なのだが。一階の扉はふすまと障子だ。トイレだけは木戸であったが、開けっ放しで放置されている。扉の開く音なんか出るわけがない。上だ。目の前には階段がある。薄明かりすらない闇が階段の奥に見える。一歩、階段に足を載せる。張り詰めた音が足下からする。二歩、足蹴にされ軋む悲鳴が響く。三歩…もう足は止まらない。
二階はどうやら部屋があるようだ。L字に伸びた廊下と四つの部屋。二つの部屋には磨りガラスが嵌められた扉が。もう二つはただの扉がある。上を見ると、そこは闇だ。辛うじて天井に砕けた蛍光灯が見え、足元にはその破片が見える。少なくとも幽霊や妖怪はいないようだが、別の恐ろしさがここにある。一通り廊下を歩いたが、扉は全て閉まっていた。そして、それらの前には積もった埃の山があった。それはつまり、この家はやはりただの廃墟で、ここから扉の開く音がした訳じゃないということだ。念の為に、それぞれ扉を開けてみる。一番奥は乱雑に物が置かれていた。次の部屋はやけに物が少なく、代わりに部屋の中央には灰皿代わりの空き缶が並んでいた。その次の部屋はゴミの山だ。大小様々な袋が転がり足の踏み場もない。最後に、階段のすぐ側の磨りガラスの扉を開く。そこは小さな部屋だった。六畳程のスペースで、畳まれた煎餅布団が端に置かれている。部屋の中央には一人用の小さな卓袱台があり、その上には縄が垂れ下がっている。その先を照らしてみれば、天井の梁に強く結ばれているようだ。ライトを消す。どういう理由かは知らないが。ここで終わった舞台があったのだ。いつかも、なぜかも、関係ない。ほんの少しの悲しさが胸に走る。
視線を下げて卓袱台を見れば、その上には汚れた人形があった。遠くてよく見えないが、嫌な感じがする。何より相応しくないと強く感じた。舞台の幕は降りたのだ。ならば感慨を、あるいは何らかの記念品だけを持って去るべきだ。だが、その人形は、まるでその舞台の幕にしがみついているようにその場に居座っている。また顔のない感情が姿を現す。煮立ったように表面が荒々しく揺れ、脈動する感情。それは何も言わず。ただそこにあった。
部屋の窓に近付く。卓袱台を横切り、背を向けると嫌な気配が急激に大きくなる。木の軋む音が頭上近くで響く。冷水を浴びれられたような恐怖が背筋を貫く。感情は恐怖に抑えつけられる。足は動かせず、音が近付いてくる。木の軋む音が?違う、縄が揺れているのだ。何故?それは…。いや、そんなことはどうでもいいのだ。抑えつけられた感情が、行き場をなくした感情が律動する。それは怒りを表した。苛立ち紛れの足が腐りかけた床の上に叩きつけられる。恐怖が背後でより大きく、息遣いすらするほど存在を伝えてくる。だがしかし、その恐怖は怒りをより大きくしただけだ。
何に対する怒りか?恐怖に対して抱く反射的な恐慌にも似たものか、自らの愚かさを呪うものか、無粋な者に対するものか、この場にいない誰かを偲ぶものか、どれも違う。それはただの怒りだ。名もなく、顔もない。泡立つマグマの如く意識を塗りつぶすほど鮮烈な怒りだ。
窓辺に着くと、勢い良く窓を開けようとする。錆びた鍵が邪魔をした。ガソリンをかけた火のように怒りがその熱量を増す。鍵に手をかけるが、動かない。降り積もった時間が鍵の役割すら奪ったのだ。勝ち誇ったような悪意がすぐ側まで来ていた。
あらゆる物が浮かび上がる。鍵が、部屋が、人形が、縄が、床が、家が、毛虫が、埃が、悪意が、明かりが、傘が、道が、闇が、階段が、トイレが、演者が、自分が、恐怖が、したり顔が、汚水が、思い浮かぶ全てが浮かんでは消える。過去へ過去へと思い出すら浮かんでくる。まるで幻燈機の中に入ったようだ。くるくる巡る思い出に、火をつけた。
片手にスマホを握る。砕けてしまえと思うほど強く握り、錆びた鍵に叩きこむ。哀れな最新機器は古びた鉄細工と運命を共にして、その役目を終えた。片手で窓を開いた。蒸した空気が流れ込んでくる。湿った匂いがする。雨が降るのだろう。黒く厚い雲が保証するかのように広がっている。気圧によって逃げ惑う風が髪を撫でる。良い気持ちだった。後ろの悪意が膨れ上がる。台無しだ。そうだ、こいつは台無しにしたのだ。
暴れもがく情動のままに振り返る。黒縄に吊られ伸びた首。膨れ上がり青黒く染まった顔が笑う。そして、その腐った腕をこちらへ向ける。その手はこちらの首へと絡みつく。おぞましいその姿は、ふさわしい悪臭を垂れ流している。体の震えが止まらない。首が締め付けられる。まるでテレビの中の幽霊話のようだ。だが、そんなことはどうでもいいのだ。重要なのは、首を締め付けるその手から悪意を感じることだ。いいや、悪意しか感じないということだ。この手は相手を苦しめるために絡みついている。相手を貶めるために絡みついている。相手を嘲笑うために絡みついている。殺す気などないのだ。だというのに、この手は、首を締めあげて、息の根を止めようとする。掠れゆく意識が怒りに染まる。行き場をなくした血流が脳髄を焦がす。衝動のままに足は卓袱台へ向かう。そして、汚らしい人形を掴み上げる。
見れば見るほどおぞましい人形だ。皮で覆い、髪で縫い、腐った肉の詰まった。その首は結われた髪が締め上げている。見たこともないほど醜悪な人形だった。首に絡みついた手が苦痛に蠢く。より強く、より強く首が締め上げられる。殺されたくないから殺すとでも言うのだろうかこの手は。いっそ無様なその感触によって焚き付けられるままに、人形を握りつぶした。指の間から汚濁が溢れズボンを濡らす。手が首から離れた。逃げるのか。ぐらぐらと泡立つ怒りのままに、その背へと人形を投げつける。
「忘れもんだ!」
壁に叩きつけられた汚物は、その跡を壁紙に残して床の上にずり落ちた。その姿に目も向けず、汚れた手をどうしようかと途方に暮れる。嫌な臭がするのだ。できれば水で、せめて布で拭いておきたい。結局、カーテンで拭った。ズボンにかかった方は諦めよう。さっさと洗濯機にぶち込むのだ。ついでに分厚いマスクを取り外し、窓枠に身を乗り出して深呼吸をする。実にすっきりとした、爽やかな気分だった。
部屋を出る最後に、一度だけ部屋を眺める。部屋の中央に鎮座する卓袱台。その上の首吊り縄。ここで何があったのかは知らない。だが、悲しい出来事があったのだ。そしてそれは記憶、あるいは記録として残るのだ。しかし、それを嫌う者がいたのだろう。そのため、わざわざ終わらせないためにあんな物を置いたのだ。誰かに知ってもらいたかったのだろう。どう知られたかったのかは知らないが。だがそれも無粋なだけだ。終わった話に付け足せば、それは全て蛇足だ。蛇足の物語を何と言うか。駄作だ。あの人形は、縄の主を愚弄しただけではなく、その人生すら駄作にした。顔のない感情が怒りを表そうとする。その姿を見る前に、扉を閉めた。
入って来た時と同じように、窓から出た。同じようにブロック塀を、と思ったが近付きたくないので止めて門から出ることにした。幸い、路地には誰もおらず、通報沙汰になることはないだろう。
「全く。とんだ散歩になったな…。」
というか、よく考えるとすごい体験をしたものだ。廃墟探検してその上、幽霊に出会い退治…ではないが追い返したのだ。呪われでもしないだろうか、と考えたが。そんな根性もないだろう。いじけた手だった。
錆びて開けっ放しの門から出て、振り返る。朽ちかけた家屋、独特の恐ろしさと悲しさが混ざった感情が湧き上がる。
「お邪魔しました。」
そう言って背を向けた。誰もいなくなった家屋は、先程までと変わらずただそこにあった。どこかで、扉が閉まる音がした。なんてこともないただの音だ。腹の虫が疼く。ラーメンの気分だ。駅前に出よう。
この後滅茶苦茶替え玉した。