かのん
「もしも願いが叶うとしたら、安西さんは何をお願いしますかあ?」
今日の花音はこんな可愛い事を訊いて来た。
私はウイスキーを一口飲んで彼女の大きな瞳を見つめる。
「違う人と結婚し直したいな」
「えぇ?だって、まだ結婚二年目でしょ?」
「婚活パーティーで知り合った、モテない五十歳同士の諦め婚だったからね。でも、結婚したら急に会社の女の子達が優しくなって、何だ、モテなかったんじゃない、積極性が足りなかっただけだったんだ、って知ったよ。だったら、もっといくらでも選択肢があったんだ」
「奥さんのお陰で取っ付きやすいムードになられたせいなんじゃないんですかあ?」
「まさか。何の役にも立ってないよ。まあ結婚したお陰で孤独死だけは免れたというのが唯一良かった点だけどね」
花音が一瞬沈黙し、店内のざわめきが急に耳についた。いつになく暗い声で、
「でもそれって、奥さんが先に死んじゃったら結局孤独死ですよね」
と呟く。まずい事を言ったようだった。
店を出ると花音が名刺を差し出して来た。
「番号同じでデザインだけ変えましたあ」
クラブMIRAの花音、漢字の上にはKANONと入っていて、その周りに小さな花のイラストが散っている。
「今までのプルメリアのイラスト、ありきたりだったから、今度はブルーポピーにしてみましたあ。また同伴よろしくですう」
「オッケー。またね」
私が手を振ると、寒々しいミニのピンク色のサテンドレス姿の花音はおじぎをした。出会ってひと月。彼女を大変気に入っていた。
自宅のアパートのドアを開けると、冬の冷気に沈んだ暗闇が押し寄せて来て、私の酔い心地は一掃された。
妻の早苗はもう寝ているようだ。それは仕方がない。だが、電気を全て消してしまうのはいかがなものか。
明かりをつけて部屋に入る。食卓はきれいに片付いている。
私はソファの上に転がった。寝室で寝るのは億劫だな。早苗に気なんか遣いたくない。
ぼんやりと床を眺めると、一枚の紙が落ちているのが目に入った。
ソファから半分身を乗り出して拾ってみる。
名刺だった。
「一億人に一人の貴方に マダムカナエ」
何の店だ。住所も電話番号もない。
早苗が何をしようと興味ないが、私までトラブルに巻き込まれるのだけはごめんだ。
尋ねるのも面倒だな……。私は仰向けになってコートのポケットから花音の名刺を取り出した。どうしようかね、花音ちゃん。
猛烈な寒気が体中を刺し、私は目覚めた。
結局ソファの上で眠ってしまったようだ。
エアコンをつけコートを着たままだったが何も掛けていなかったので冷えきっている。
台所で早苗が炒め物をする音が聞こえて来た。私が眠っているのを目にしながら、毛布一枚掛けなかったのか。
私は寒さを超える怒りに震えた。
「おい!早苗!いい加減にしろ!毛布一枚掛けてくれないなんて、冷たすぎるじゃないか!お前がそういう態度だから俺も気持ちが冷めるんだよ!」
台所へ向けて怒鳴ると、柔軟性を失った体を引きずって、私は家を飛び出した。
そのまま出社し、仕事を終えて花音を同伴に誘い出した。
「もう我慢できない!離婚だ!俺は本当はモテるんだ!無理にあんなババアに付き合うことはないんだ!」
「……ちょっと、お手洗い行って来まあす」
花音は無表情で席を立った。愚痴を聞かせすぎたか。私は落ち込んで頭を抱えた。
「じゃあ離婚しましょお、安西さあん」
え、何!?突然の花音の言葉に顔を上げる。
目の前に、スッピンの早苗が立っていた。
「さ、早苗!?だって、今の声!?服も、それ、花音が着ていた赤いワンピース……」
バン!早苗は花音の名刺をテーブルに叩きつけた。私が手にしたまま眠った物か。
「私ぃ、離婚した友達にマダムカナエのメイク教室紹介してもらってぇ、三十年若返りメイク習得して、一ヶ月前から花音やってるのお。寝室の布団に詰め物して夜じゅう抜け出して。私、両親の介護で婚期を逃したけどアンタと違って昔はモテたの。このメイクで願い叶って憧れのキャバ嬢になれたし、もっといい男見つけ直すわ。アンタみたいな臭くてキモイ男がモテるって?笑っちゃう。限界はこっちよ。今日限りでサヨナラぁ!勝手にゴー・トゥ・孤独死!」
花音早苗は風のように店を出て行った。名刺だけが虚しくテーブルの上に残る。
開口しすぎた私の顎が、ガクンと外れた。 (了)