番外編 王女殿下と春を呼ぶお菓子10
「どうした?」
異変を察知したのかアーシュがすぐにメイリーアの側に寄った。ルイーシャも不安そうにメイリーアの様子を注視している。
「え、ううん。なんでもないわ」
メイリーアは慌てて首を振った。そうしてもう一口パイを口に運んだ。
「なんだか、なつかしいような気がして。やっぱり昔食べたことがあるのかもしれないわ。わたしもお母様と一緒に食べたのかしら…」
「なんだ、寂しくなったのか」
アーシュは少ししんみりしたメイリーアを気遣うように顔を覗き込んで、そのあとくしゃりと頭を少し乱暴に撫でた。
「べ、別にさみしくなんかないわよ! 私にはお姉様もお父様もいるもの。お兄様はかなり面倒だけど」
ムキになったメイリーアをみてアーシュは楽しそうに笑っていた。
ニルダは体の中になにか重いものがたまっていくように心が重くなっていくのを感じ取った。
アーシュは変わっていた。離れていた数年間のうちにこんなにも素の表情を惜しげも無くさらけ出すようになっていた。それを引きだしているのはメイリーアという少女だ。
彼女のことをいくら想っても所詮身分違いなのに。どこかいいところのお嬢様なんだからアーシュが望んでも妻に迎えることはできないだろう。まだ若いこの少女はそのうち自分の身の丈にあった男性の元に嫁いでいく。
だったら、たとえ恋愛感情がなくても相棒という形で家族になることだって別に悪いことではないだろう。アーシュは家族や故郷のことを話したがらなかった。
こちらも別にそこまで興味はなかったけれど、おそらく家を捨ててきたのだ。だったら自分は彼に新しい居場所を提供してあげられるのではないか。
ニルダには時間がない。両親には春の精霊祭り―カスティレートでこの時期行われる祭りの愛称だ―が終わるころに帰ると手紙を書いてしまった。
そろそろ期限である。
いつまでもぐずぐずしている暇なんてない。だったら、逃げていないでさっさと伝えたいことを伝えなければ。
食べ終わった皿を片づけているアーシュのほうに顔を向けた。
「アーシュ、伝えたいことがあるの」
「なんだ」
皿を運びながらアーシュが声だけで返事をした。
「私がグランヒールに来た理由。トリステリアのお菓子をこの目で見て、食べて研究したいっていうのももちろんだけど、一番の理由は。一番の理由はアーシュに会うためだよ。会って伝えたかった、好きだって。ずっと好きだった。私と一緒にカスティレートの、わたしの実家の菓子店に来ない? そして一緒に店を継ごう」
話したいことを一気に話した。
途中でアーシュはニルダの方に体を向けて、そのまま息を呑んだように絶句したままだった。おそらく予想もしていなかったに違いない。それはそれで心が痛んだけれど、きちんと言いたいことは最後まで伝えることができた。
「お、俺は…」
「いいから! 返事はまだいいから。ちゃんと、ゆっくり考えてみて。もちろん店のこととかもあるしね。私の実家も小さいけれどいい店だし、アーシュさえよければトリステリア風の菓子だって置くこともできるし、『空色』の名前で菓子を販売するのもありだと思う。だから、そういうことも含めて私との将来を一度考えてみて」
アーシュが何か言いかけたのを遮ってもう一度念押しで自分の気持ちを伝えた。さすがにこれ以上はいたたまれなくてニルダはするりとアーシュのすぐ隣を通り抜けて厨房から逃げるように退出した。
なにしろ人生初めての告白というものをして、体中が火照ってしまい汗が噴き出してきたのだ。おまけに心臓も口からでてきそうでばくばくと盛大に鳴っている。ちょっと一人になりたかった。
夕食後、メイリーアは宮殿の一角にある部屋を訪れていた。
普段はあまり立ち入らない場所で、その部屋には母レイティシーアの肖像画が何枚も飾られていた。父王は時折ここを訪れるらしい。
燭台の炎に照らされて在りし日の母がぼんやりと浮かび上がっていた。微笑を浮かべて椅子に座った母や小さな子供たちと一緒に描かれたもの、子どもたちはメイリーアら兄姉だ。
やわらかい母の微笑を目にしてメイリーアはまぶたを閉じた。母との思い出をよみがえらせようとするも、顔はぼんやりとしか浮かんでこない。
宮殿の一角、庭園で一緒に遊んだ記憶や姉らといっしょにはしゃいでいてこけた時に優しく起こしてくれたり、おぼろげに覚えてはいるけれどどんな表情をしていてどんな会話をしたのかは思い出せなかった。
五歳のころに亡くなった母のことはメイリーアの中ではとっくに気持ちの整理のついた過去のことだった。
それなのに今日こうしてこの部屋を尋ねてきたのは昼間にアーシュの作ってくれたパイを食べたからだった。そうしてもう一つ。
「珍しいわね、あなたがこの部屋を訪れるなんて」
一人しかいないはずだった部屋の扉がいつの間にか少しだけ開いていた。声の主は分かっている。メイリーアの大好きな姉、アデル・メーアだ。
「久しぶりにお母様の顔が見たくなって」
メイリーアは少しだけ顔に笑顔を浮かべて振り返った。アデル・メーアはいつものようにメイリーアの側に近寄って髪の毛を撫でた。
アーシュの手とはちがって柔らかくてたおやなか感触だった。
「お母様の顔なら毎日見ているじゃない。わたくし最近ますますお母様に似てきたって色々な者に言われるわよ」
「お姉さまは昔っからお姉さまで、わたしにはお母様とは別人だもの」
メイリーアは首をかしげて答えた。
姉は姉である。
レイティシーアそっくりらしいが、比べる対象の母の顔がぼんやり霞んでいるのでどうしようもない。
「可愛いこと言ってくれてありがとう。わたくしそういうあなたの素直なところ大好きよ。それにしてもどうして急にお母様の絵を見ようなんておもったのかしら」
「わたしお母様のこと随分と忘れているなあって思って。今日ね、アーシュのお店で王様のケーキを食べたの。なんだか懐かしかった。お姉さまは覚えている? きっとわたしたち食べたことあるのよね」
メイリーアは母と一緒に描かれた自身の小さな頃の肖像画を眺めた。一番小さなメイリーアは母の膝の上で少しだけ緊張気味に描かれていた。この時のメイリーアは一体何を思っていたのだろう。
「そうね、お母様もお菓子は大好きだったから。みんなで春のお祝いってパイを食べたわね。メイリーアもシュゼットも中に入っている豆の焼き物をほしがって大変だったわ」
アデル・メーアがくすりと思い出し笑いをした。
やっぱり、おぼろげながら頭の片隅にあった記憶は間違いなかった。
「それでね、なんだか悲しくなっちゃって。わたし色々なことを忘れてしまったのね。お母様との思い出を。これからも失くしていくのかしら、どんどん忘れていってしまうのかしらって思ったら急に悲しくなって寂しくなったの」
メイリーアはしょんぼりと項垂れた。
忘れたくはないのに、メイリーアは多くのことを忘れているのだろう。初めて食べたケーキの味や母に抱かれた時のこと。どれもその瞬間は鮮明だったのに、どんどん色あせてしまうのだ。
メイリーアは怖かった。
アーシュのことも、もしも彼がグランヒールから出て行ってしまったらメイリーアは彼のことも次第に頭の隅から消えて行ってしまうのだろうか。
ニルダの目的がアーシュを連れていくことだったなんて。
「メイリーア、何かあったの?」
急におかしなことを言いだした妹を訝しんだのかアデル・メーアが優しい口調で問うてきた。
メイリーアはおずおずと姉の方に目をやった。持て余して行き場をなくした感情は自分一人では処理できそうもなかった。
「お姉さま…、アーシュが。アーシュが遠くへ行ってしまうわ!」
すん、と鼻をすすってメイリーアはアデル・メーアの腕の中に飛び込んだ。そして今日会った出来事を話し始めたのだった。




