四章 王女と王子と祭典と12
ルイーシャの反応からアーシュは大体の事情が読みこめた。貴族の娘かと思っていたら王族の姫だったとは。アーシュの想像を超えた姫君像に色々と突っ込みたいことはあったが今はそれどころではない。
今度こそアーシュは『空色』から飛び出して行った。
話は今日の午後にさかのぼる。
二日前に『空色』を訪れた時から考えていたこと。自分の素姓をアーシュに伝えなければならない。事後報告でばれるよりもメイリーア自身の言葉で素直にあやまろう。
言う機会が無かっただけで別に積極的に騙していたわけではないのだ。きっとアーシュだってそんなにもは怒らない、と思いたい。
メイリーアは朝から、というより前回の訪問からずっとどこか心あらずだった。事情を知らない侍女や女官は大舞台を前にさすがの王女も緊張しているのね、と見当違いの思い違いをしていて皆メイリーアに気を使っていた。
ルイーシャはやはり今日もメイリーアの側を離れていた。
昼食も終わりメイリーアは今日の予定を確認した。夕方からアデル・メーアに呼び出されている以外とくになにもない。
ほんの数時間、いや一時間ほどもあれば大丈夫だろう。
もやもやしたままでは当日にも差しさわりがある。こういうことはさっさと済ませた方がいいのだ。
という思考にたどり着きメイリーアは今日も脱走を実行した。
一応ルイーシャに手紙を残して行ったのは念のためである。あまり騒がれたくなかった。
前回脱走時にいやな目に宮殿付近では特に人の目を注意したけれど、別段変りなく下町のあたりまでやってくることができた。馴染みになった広場で辻馬車を降り『空色』に向かって歩こうとした。
年の瀬も迫ってきているからか、街はいつもよりも賑やかだった。今年一年感謝の気持ちを込めて祝うのだ。通りを行き交う人々の表情は忙しそうに見えてどこか明るかった。そんな街の様子を見ているだけでもメイリーアは楽しくて仕方ない。とくに顔見知りや友達もできたトーリス地区ではなおのことだった。
正体を明かしてもこれまで通りたまには『空色』には通いたい。
そう思いながら通りを歩いている時である。
突然伸びてきた手がメイリーアの腕を掴んだ。そのまま路地裏へ引っ張られる。
こんなこと一度も無かった。
メイリーアは叫ぶこともできずにその場に崩れ落ちた。誰かがメイリーアを背後から殴ったのだ。
気を失ってどれくらい経ったのか。
意識を取り戻したメイリーアだったが視界は闇に覆われたままだった。腕は後ろにしばられているので自由が利かない。
メイリーアは恐慌状態に陥った。
理由も告げられず誰かに連れ去られた。今分かっているのはそれだけである。力の限りもがいてみたが縛られた腕はびくりともしない。声を出したくても口の中に布を噛まされているおかげで何も発声することができない。
足は自由だったので立ちあがってみたけれど、視界がふさがっているのでどういう形状の場所にいるのかも分からなかった。恐る恐る数歩歩いたところで何かに躓いて倒れた。
痛い。メイリーアはその場でしばらくうずくまった。
地面はひんやりとしていた。多分、煉瓦ではないと思う。絨毯が敷かれているわけでもないけれど、そこまで痛くはなかったからおそらく木張りなのだろう。
そんなことが分かってもどうすることも出来なかったが、頭は冷えてきた。
視界不良で声も出せないし、体の自由も利かない、で怖いことは怖いけれどメイリーアだって王族なのだ。自身の命を狙われる危険性は幼少時より折に触れて説明をされてきたし王女たる者いついかなる時でも毅然としていなければならないと教えられてきた。だったら普段はどうなのか、と言われてしまったら何も言い返せないけれど有事の今この時くらいは気丈に振る舞ってやるのだ。よりにもよって「お菓子の祭典」直前に誘拐しなくてもいいのに、と思わなくもなかったが。
メイリーアは己の気持ちを奮い立たせた。
倒れた体制から起き上がりちょこんと座りなおした。
来るなら来い。どこの誰だろうと簡単には屈してなるものか。
その気持ちのもと座り続けてどのくらいの時間が経過しただろう。あまりにも退屈すぎて頭の中でグランヒール菓子店巡りの旅を妄想するのも飽きてきたころだった。
周囲に足音が響いてきた。数人が話している声が近づいてきた。
ようやく訪れた変化である。メイリーアは息を殺して耳をすませた。内容までは聞き取れない。案外に丈夫な作りの建物のようだ。
やがてガタンと、大きな音がした。
続けてガチャガチャと金属音がした。おそらく鍵穴に鍵を差し込んでいるのだろう。「さっさと開けろ!」という声が聞こえた。
思い切り聞き覚えのある声である。
あのどなり声は間違えようもなくメイリーアの雇用主でもある『空色』の店主、アーシュだ。どうして彼がここにいるのだろう。
ぎぃっと音を立てて扉が開く気配がした。そしてなぜだか大きな音が聞こえてきて静かになった。単にアーシュが男を叩きのめして気絶させただけなのだかそんなことメイリーアが知る由も無かった。
「メイリーア無事か!」
懐かしい声と同時にメイリーアは布越しに光を感じた。
ランプの光だろうか。少しだけ冷たくなった手がメイリーアの視界を覆っていた布に触れた。慌ただしくも優しい手つきで布がと外された。メイリーアはゆっくりと瞬いて焦点を合わせた。
「アーシュ…どうして」
メイリーアは訳が分からずに呟いた。
「メイリーア…どこも怪我はないか?なにもされなかったか?」
メイリーアの傍らに膝まずいたアーシュはメイリーアの顔をぺたぺたと触り、どこも怪我の無い様子を確かめるとそのまま腕の中に抱きしめた。
思いのほか強い力だった。ぎゅっと抱きしめられて、アーシュのぬくもりが伝わってきて初めてメイリーアは心が溶けていくのを感じた。
ぽろぽろと涙が浮かんだ。
メイリーアはその時になってようやく、自分が心細かったことに気がついた。
怖かった。王女という誇りと矜持だけで耐えてきたけれど、やっぱり一人は怖かった。
じっと何時間も絶えてきたのだ。アーシュの持っていた明かりが淡く周囲を浮かび上がらせた。時間がどれくらい経過しているかなんて、まったく分からなかったけれど、あたりはすっかり真っ暗だった。
「本当にすまなかった…俺のせいで」
「だい…じょうぶ…」
気丈に振る舞わなければならないのに、メイリーアはそれだけ言うのが精いっぱいだった。すぐ近くで声がした。アーシュのぬくもりが心地よくて、思えば初めて男の人に抱きしめられているのにそんなこと全然気にする余裕も無く、メイリーアはされるがままになっていた。けれど不思議と嫌ではなかった。




