四章 王女と王子と祭典と7
夜も更けていく頃合いで、賓客が出かけていくにはいささか気まずい時間帯ではあった。しかしグレイアスも戻らない今、自分ひとりが呑気に報告だけ待っているというのは時間の無駄であろう。ノイリスの愛する冒険小説ではこういうとき、主人公はさっそうと現場に駆け付けるのだ。性格的に僕とはちょっと違うんだよなぁ、と思いながらノイリスは手早く外套を羽織って、戻ったばかりの騎士を連れだって宮殿を後にした。意外なことに宮殿の警備兵はあっさりと外へ出してくれた。もう少し詰問されると思っていたが、明らかにお忍びといういで立ちに色々と勘繰ったのかもしれない。男のお忍びといえば、の定石で思われていたら嫌だなあと思いながらノイリスは騎士の案内する一角へとたどり着いた。宮殿を抜け出してから数十分のことである。
街灯のあまりない、暗闇が侵食する細い路地を抜けてたどり着いた先は小さな間口の店である。騎士の持つランプの明かりで辛うじて読み取れる看板の文字は『空色』と書かれていた。
人の気配に中の人物が気付いたのであろう、中から扉が開かれた。
茶色の髪の毛をした青年は神妙な面持ちでノイリスの顔を眺めた。そしてすぐに片膝をつきこうべを垂れた。
「お久しぶりでございます。殿下に置かれましては―」
「堅苦しい挨拶は抜きにしてよ。今は一応お忍びだしさ。それにしても…ええと、アインハール家のええと…」
「フリッツと申します」
「ああそうだった。昔から兄上に仕えていたね。君の父君のことはよく知っているよ。それと、その…」
ノイリスは辺りを見渡した。小さな店である。カウンターの中には日持ちのする焼き菓子が並べてあった。奥は厨房だろうか。しかし人の気配がなかった。
明かりが灯っているのも売り場のみである。
「他の者は自宅へ返しました。これでも忙しいのですが人払いをする必要があったので」
「それはすまないね。「お菓子の祭典」は明後日だもんね。で、君がここにいるということは当然兄上も一緒なんだろう。どこにいる?」
その質問にフリッツは困ったような顔を浮かべた。
「それが…。先ほどから行方不明でございます」
今度はノイリスがぽかんと口を開く番だった。
時は数日前。
ライデン・メイスンは非常に機嫌が悪かった。原因は一つしかない。『空色』が気に食わない、ただそれだけのことである。『空色』というよりかは店主であるアーシュ・ストラウトが嫌いなのである。
ライデンの行動原理はいたって単純明快だ。自身の生家『金色の星』がグランヒールきっての伝統を誇る菓子店である尊敬されるべき一流の店、それ以外ましてや下町などという労働者の住まう地域に構える店など二流以下、三流もいいところ、というものだった。その三流店―あくまでライデンの中では、である―の店主アーシュ・ストラウトとは初対面のころからそりが合わなかった。こちらに媚びへつらっておけばまだ可愛げがあるものの、とにかく態度がでかくて尊大だった。しかも自分の実力を過大評価しすぎるきらいがある。
あれはいつのころだったか、とにかく組合の会合の何かの拍子に口論となった。その場は他の人の手前平和的に解決をしたがそれでは気が収まらなかった。腕の一本でもへし折ればおとなしくなるか、と隙をついてみれば見事に返り討ちにされた。ライデンも菓子職人として日々体を鍛えていたので一応腕には自信があった。この場合鍛えた加田らの使いどころが間違っているというのはどうでもいい。
気に食わない相手を拳で持って制するというのは単純な男の思考原理である。
そして肝心なのはそこで見下していた相手から完膚無き大敗をしたということだった。ここでおとなしく引き下がれないのがライデン・メイスンという男で、腕で敵わないのなら残っているものは自分は伝統ある一流店の跡取りという誇りだった。
それなのに、見下している相手が同じ土俵に上がるのである。王家主催の「お菓子の祭典」。王女の気まぐれだか何だかで急きょ開催されることとなった催事だ。それ自体は別にいい。何しろ『金色の星』の実力と伝統を持ってしたならば市民の尊敬と称賛を一身に浴びることができるだろう。
一番許せないのはその栄誉ある場によりにもよって『空色』がいる、という一点だけだった。
下町の程度の知れた菓子店を出場させるなど正気の沙汰か、と食い下がってみれば担当役人に無下にされる始末だった。王女の決定事項に逆らうのか、と。さすがに気まぐれだか何だかしらないがライデンも王家の人間に意見できるほどの立場ではなかった。
第三王女は菓子好きということで有名だったが、なにしろ宮殿の奥で大切に育てられているのだ。王家からの注文で菓子を献上することはあっても直接拝謁する機会はなかった。
余談だが、メイリーアが宮殿を脱走して一般客を装って『金色の星』にお菓子を買いに行ったことがある、ということをライデンは知る由も無かった。
ライデンとしてはどうにかして『空色』の出場を辞めさせたかった。どうすればいいか、答えは単純である。それとなく妨害すればいいのだ。
と思って店の下っ端や見習いを使って見張りをさせてみたが、いかんせん使えない。それとなく見張ってみれば女と楽しく食べ歩きをしている始末であった。
こいつ舐めているのか、と思わなくもなかったがその女、少女がどうにも怪しかった。下町には不釣り合いないでたちをしたきれいな少女だった。アーシュは顔だけはいいから、おそらくその顔に騙されたのだろう。可哀そうにすっかり骨抜きにされていた。いいところの令嬢のようであるが『空色』をかいがいしく手伝っている様子を察するに末期である。
その少女が宮殿の近くをうろついているところを見つけた時、ライデンの脳裏に閃くものがあった。
あの少女から色々と内部情報、自分たちには明かされていない極秘情報を聞きだしているに違いない、と。そうでないとおかしい。
一人だけ作りたてに拘ってみたり、異国風の菓子を持ちこんで王女の気を引いてみたり。宮殿に出入りのできる少女を通じて、調べたのだろう。これは完全な不正である。ライデンは自分の才能の限界を棚に上げてぎりりと歯噛みをした。
宮殿での打合せの帰り道。メイリーアを寸前のところでアーシュの弟子であるフリッツに奪取されたあとライデンは高ぶった感情を完全に持て余らせていた。これで『空色』を完全にたたきつぶせると思ったのに、よりにもよってその『空色』関係者から横やりが入ったのだ。ただの弟子かと思っていたフリッツの力は強かった。振り払おうともびくりともしなかったのだ。過去の経験上、引き下がるしかなかった。それくらい、彼の瞳に宿った色は剣呑に光っていた。怖気づいたライデンは、見下しているアーシュの弟子ごときにその場を譲ったという事実も許し難かった。行き場のない感情を何かにぶつけたい。
大股で歩いているといつの間にか目の前に長身の男がいた。
灰色がかった暗い色の髪を短く刈り込んだ男である。微動だしない立ち方や気配を完全に消していたことといい、只者ではないだろう。
「なんだよ」
それでも、むしゃくしゃしていたライデンは相手に向かって吠えた。
「いえ、『空色』の店主に用があるのですが、あの少女が少々邪魔でして。できましたらご協力いただけないかと―」
ライデンは相手の顔を窺った。何も読み取ることはできない無表情をしていたが、『空色』へよい感情を持ちあわせているわけではないだろうくらいは読めた。
「へえ、あいつ、アーシュのやつに恨みでもあるのか?」
「それは貴殿の知るところではない」
答える気はないらしい。そっけない言葉にライデンはその場を通り過ぎようとした。
「けれど、貴殿にとっても悪い話ということではないだろう。私は『空色』がグランヒールに居を構えているのを良しとしない」
その言葉にライデンはぴたりと足をとめた。
話を聞くくらいは聞いてやってもよい、くらいに心が傾いていた。




