二章 隣国からの訪問者8
振り向くとそこには柔和な笑みを浮かべたノイリスが佇んでいた。手の中にある皿には焼き菓子がいくつか盛られていた。それをメイリーアに進めてくる。
「ありがとう」
こちらも笑みを浮かべて、メイリーアは小さく焼かれたケーキをつまんで口の中に入れた。咀嚼をするとバターとバニラの香りが口の中に広がった。いつも食べている城の菓子職人たちが作るお菓子の味だ。安定感のある味も好きだけれど、アーシュの作るお菓子も好き、なんてことが頭に浮かんでメイリーアは慌てて頭の中の思いを打ち消した。いやいや、あの人のことなんて今は関係ない。第一最後の別れ際口論になったのだ。
「ええと、いかがですか。我がトリステリア王国とアルノード宮殿は」
本当はあまり気が進まなかったけれどメイリーアは仕方なく口を開いた。周りはどう思っているか知らないけれど、まだまだお嫁に行くなんて考えてもいないし外堀から埋めてゆくゆくは婚約なんてほんっとうに余計なお世話なのだ。
だから今回も極力ノイリスとはかかわりたくなかった。しかし本人が目の前にいるんだから少しくらいは相手をしないとまずいのだ。一応こちら側がおもてなしする側なのである。
「ええ、とても快適です。素晴らしい部屋を用意してくださりありがとうございます。国王陛下にも良くしていただいて。王太子殿下とはいくつか一緒に視察に行く約束もしました。急に押し掛けたのにもかかわらずみなさん親切にしてくださって感謝しています」
「そうですか。それは良かったです」
「それに」
ノイリスは一度言葉を区切ってからメイリーアの瞳をじっと見つめた。
「金色の花と名高いメイル・ユイリィア姫にもこうしてお会いできましたし」
こういうことに慣れていない―レイスが画策をして極力男性を近づけないため―メイリーアは困ってしまった。
普段レイスによって宮殿の奥に大切に仕舞いこまれているせいで男性からの接近に慣れていないのだ。アーシュと喧嘩するのなら平気なのに、とついまた頭の中に目付きの悪い菓子職人を思い浮かべて困惑する。
「ええと、その。あ、そうだわ。どうして第二王子なのに王太子なのですか」
咄嗟にメイリーアは質問をしていた。
とりあえず場が持てばなんでもいい。
「ああ、そのことですか。それは私の母が現王の正妃だから、ですよ」
ノイリスの言葉に要領を得ないメイリーアの様子にノイリスはさらに言葉をつづけた。
「我がガルトバイデンの王は三人の妃がいるんです。正妃はガルトバイデンの東の隣国ラーツリンド帝国から嫁いできた私の母でもある正妃、アガーテ。彼女と王との間に生まれた私が王太子なんですよ」
そこまで聞いてやっと合点がいったメイリーアだ。隣国の王に妃が三人もいるなんて今の今まで知らなかった。その後ついうっかりそのことをアデル・メーアに漏らしてしまい、隣国の王家の情報くらい頭に入れておきなさいと説教されてしまうのは別の話だ。
「妃が三人もいるんですか」
さすがに知りませんでした、とは自分の無知を知らしめているようで言葉にはできなかった。
「ええ、兄が一人いますが彼とは異母兄なんです。ですが私にとっては大事な兄なんです」
「そうなんですか。わたしも兄も姉もいるのでその気持ちわかりますわ。兄についてはちょっと過保護すぎますけれど」
「…そのようですね」
メイリーアの言葉にくすりと笑ったノイリスの目線の先には、いつの間に二人きりで話しているんだ、と鬼のような形相で目をむくレイスの姿があった。ついでにそのままメイリーア達の方に向かって大股で歩いてくる。それを見てノイリスは微苦笑した。ルイーシャはノイリスが登場した時点で二人の傍から離れていたのである。
ああもう面倒くさいことになってしまった。こうやってレイスがすぐにメイリーアに構いたがるから年頃の令嬢たちから煙たがられるのだ。レイスの取り巻きたちにしてみたらメイリーアの方がお邪魔虫なのだ。
「王太子殿下にはまだ嫌われたくないので。今日のところはこのくらいで。それではまた、メイル・ユイリィア姫」
優雅に一礼してノイリスはその場から離れて行った。取り残されてしまったメイリーアはこの後のことを考えて大きく肩を落としたのだった。
その日アーシュは気分転換も兼ねて一人出かけていた。昼ごはんを食べがてらの小休憩である。普段なら前の晩の余りとか近所のパン屋で適当に調達してきたもので腹を満たしていたのだが、なんとなく店にいても退屈だったので外出したのである。秋もますます深まり最近では日中でも外套なしでは肌寒い。アーシュはもう少し厚着してくりゃ良かったと両腕をさすった。
寒いのにわざわざ外に出たのは店にいる自分が特定の誰かを待っているようで気に食わなかったのだ。特定の誰か、最近店に通うようになった少女、メイリーアのことである。
家の方が忙しくなってあまり来られないと前回宣言した通りかれこれもう十日ほど姿を見せていなかった。これまでだって毎日売り子に来ていたわけではないから最初の三日間くらいは別段何もなかったが、五日を過ぎたあたりで常連客やらレオンらにメイリーアは辞めたのかと尋ねられた。皆メイリーアがアーシュのいびりと剣幕に耐えきれなくなって辞めたに違いないと憶測をするからそれもそれで腹が経つ。大体あいつがそんな玉に見えるだろうか。ちょっとこちらが何か言おうものなら負けじと言い返してくる奴だというのに。フリッツも売り子二人がいないとつまらないらしく最近では日課のように午後になると店の表の掃き掃除を行っていたりする。
アーシュはといえば、果たして自分はメイリーアに来てほしのかほしくないのかよくわからなかった。十日前はメイリーアがいなくても何も変わらないと宣言したばかりなのに、いつの間にか彼女を待っている自分がいるようで、それがどうにもムズかゆかった。いままでだって何度も売り子が移り変わってきたのに、だ。誰が来ようと去ろうと別段かまわなかった。やる気がないなら辞めればいい、こちらから頼んだわけでもない、売り子志望の女たちは一過性の熱病に浮かされたように志願しては勝手に失望して去って行った。
結局外に出ようと店の中にいようとメイリーアのことが頭に浮かんでくるのでアーシュはくそ、と悪態をついた。
何のために外に出たんだ。これでは意味がない。だったらたまには敵情視察にでも行こうか、酒でも買ってこようか。時間ならまだ少しある。
さて、どうしたものかと思案していると誰かがアーシュに向かって声をかけてきた。




