第二話
「うん、ありがとう。今日ちょっと体調が悪くて……うん、はい。じゃあねー、おやすみー。」
ボタンを押し通話を切ると、充電器の上に携帯を放置する。
自室のベットに身を投げ出し一気に息を吐き出す。
「はー、暑いなー。」
篭った熱に愚痴をこぼすと、胸元を楽にし手で空気を送り込む。
しかし、一向に蒸し暑さは解消されず。窓を開ければ多少はましになるかと自室のベランダに通じるガラス戸に近寄る。
そして扉に手をかけた………その時だった。
ガラス戸のカーテン。その内側の暗闇にぼう、と立つ人影。そしてカーテンの陰からその、片目がぎょおっとこちらを見ていた。
「―――――――――――――――――――っ!!!」
「――――であり、ルーズベルト大統領の急死により大統領選が行われるも、議会では長らく続く戦争の反発を受けた世論の影響により、条件付き和睦派が優勢となる。
この結果、日本がソ連を通じ交渉を行っていた条件付き和睦案件、とほぼ同等の内容であったポツダム宣言が決まったのだ。
しかし、副大統領であり大統領職を受け継いだトルーマン等ニューディール派は……」
歴史の授業、教論の言葉に耳を傾けながら、私は窓の外へと目を向ける。
校舎からも一望出来る街の景観、そして後者に大きく際立つ一本桜の木。
この距離では、彼の姿は見えないはずなのに、くっきりと彼の姿だけが浮き出ているように見える。
霊を見る機能は、光情報を受け取る肉眼の機能ではない。霊感というもうひとつの五感で霊を見ている為だそうだ。
だから、目が悪い人はメガネやコンタクトを外してみるといい、ボヤけている視界の中でクッキリと浮かび上がっている人がいたら、その人は幽霊の可能性が高い。
「……火燐 雷司。」
そっと彼の名を呟く。余節折々があり、彼と日常を共にするようになって一年が経とうとしていた。
彼は、あの桜の木から動けないし、他人と言葉を交わすこともできない。
誰とも触れ合えないのだ。
……彼は出会ったときと変わらない、この思春期真っ只中の生徒たちは私を含め、日々変わって行く。
彼だけが時間に取り残されているような印象を受ける。
―――いや事実、そうなのだろう。
果たしたい未練があるから幽霊は現世にとどまっている、未練に埋没して100年も一人、あそこに佇んでいるのだ……
「……。」
ぼんやりと外を眺める。授業は右から左へ、耳穴を貫通し通り抜けてしまう。
「おーい、たまっちゃん!」
「わきゃん!?」
いつの間にか授業が終わっていたのだろう。
一緒に熾烈な受験戦争を勝ち抜き、この学校に進学した友人の北原さゆり。
ポニーテールに結った髪をゆらしながら駆け回る活発な女の子だ。男女問わず人気がある。
―――がその彼女は後ろから、私の最近膨らみつつある女性のシンボルを鷲掴みにしている。
「ふむむ……!なんか最近大きくなってない?」
「そんなこと……あんぅ!やめてよさゆり~~」
「おっ、いい声だねお嬢さん…ほれほれ、ここがいいのかー?ここがいいのかー?」
唸りながら、その手の動きはやめない友人に懇願するが、その手による蹂躙は止むことがない。
「いい加減にせんかっ馬鹿者ォオオおおおっ!!」
「あいたっ!?」
ずごォおんと地響きのような衝突音を伴って電光石火の鉄槌がさゆりの後頭部に直撃した。
教科書の角でぶん殴られたのだ。
痛みにうずくまる彼女を他所に、私は着崩れた制服を直し鉄槌を下した張本人に向き直る。
「ふぅ……ありがとう、ゆっちゃん。」
「まったく災難だったな玉乃。北原もいい加減にしろ、同性でもセクハラは成立するんだぞ。」
「う~痛いよー。これ以上馬鹿になったらどうするの~~?」
「自業自得。それに元からバカだから大して影響はないでしょ。」
「ヒドイ!?」
「あははは……」
もうひとりの友人である、田所ゆかり。一見冷徹だが、情緒を大切にする女の子だ。
意外と可愛いものずきな一面もある。
そんな彼女の言葉に苦笑いを浮かべた。
バカとかなんとか言われているが、受験戦争を勝ち残っただけあって、さゆりもそれなりに頭はいい。
―――如何せん、全国となると三人とも十把一絡げだが。
「ま、それは兎も角。玉乃、授業中上の空じゃなかったじゃないか?何か悩みでもあるのか?」
「そうそう、だから私元気づけようとしてたのに……あ!!もしかして、例の彼氏!?」
思いついたとたん表情がくるりと好奇心の色に変わる北原さゆり。
実は、彼女には一度だけ彼の姿を見られていた。
それが彼、彼女の中で珍妙な化学変化を起こして何故か私の彼氏という扱いになっていた。
「いや、あの人彼氏じゃないし。」
「ええ~!ぶー、ぶー!つまんないよー!」
「詰まらないって……」
さゆりの事実かどうかは全く一切関係ないということに微妙な表情を浮かべるしかなかった。
だが、そんなやりとりを神妙な表情で見つめるもうひとりの友人、田所ゆかり。
彼女はゆっくりと口を開くのであった。
「………玉乃、その彼氏に少し頼みがあるんだけど、いいか?」
「??」
「??」
私はとなりの友人と顔を見合わせるのであった。
「――――」
空を見上げる。
この一本桜に未練の鎖で縛られた己は、自由に動く事は出来ない。
また、既に鬼籍であり肉体を失った己は人に触れることも、言葉を交わすことも原則として出来ない。
そんな自分に許されたのは春夏秋冬の、この山の上からの景観を眺め、空模様の移ろいを感じ、風の音色に心を預けることぐらいだ。
何十年かに一人くらいは己を見ることを出来る人間が入学することもあるが、大抵は無視を決め込む。
話しかけてくる変わり者は、極稀に現れるが最大で6年もすれば、学園を卒業し訪れることはない。
だから自分にとって、日々行うことはこうやって桜の枝葉の奏でる音色と、景色に心預けるぐらい……だが、いくら風情を運ぶそれらも、心に刻まれた、たった一つの未練の傷さえも癒してくれない。
そんな中、確かに彼女とのやりとりは、いくらかの慰めになっていた。
「芽依……あの子は君にそっくりだ。」
桜の木に身を預けたまま、青々しく葉を付けた桜の木漏れ日に目を細めて風に告げる。
もう逢えない大切な人へ向けて。
逢いたかった。
幕末の動乱で命を落とした己。また、この桜の木の下でまた逢おうと約束し、果たせなかった約束。
その未練が己を此処に縛り付け、その無念が己を現世に縛り付ける。
もう何年、此処にこうしているだろう。
彼女は彼岸でどうしているだろう。
どういう人生を送ったのだろう。
幸福と成れたのだろうか。
答えはなく、たどり着く術もない。ただ、ただ無念だけが己を締め付ける。
だが、この胸を占める感情はただ一つ――――逢いたい、もう一度逢いたい。
それすらも叶わない。
だからどうしていいかも分からない。だから彷徨う。
だから亡霊なのだ。
死の間際の苦しみは薄れることなく、その時の断末の感情の爆発―――未練が他の理性を全て塗り潰してしまう。
だから、マトモな霊なんて存在しない。みな、何処かしらに生前とは全く別の狂気を孕んでいる。
―――狂気に支配された人間がそうであるように、所詮元は人間だった霊もまた、壊れた存在なのだ。そして、それは当事者にとって苦痛以外の何者でもない。
未練に縛られているというのは、永遠に満たされない苦痛を感じ続けるという事でもある。
満たされぬ苦痛と、断末魔の苦痛が永遠に続くのだ。
故に、成仏は文字通りその苦しみからの開放でもあるのだ。
この苦しみから解放されたい、そういう願望は確かにある―――だけども、という妄念を捨てきれない。
満たされない、耐え難き乾き。この体を苛む致死の痛み。心を蝕む未練の痛み。
そんな苦痛に苛まれて尚、「だけども」と………だからこその未練なのだ。
そんな苦痛に満ちた死後だが、唯一あの子と居るとそれが和らぐような気がする。
自分でも可笑しいと思う。懐かしいと感じるのだ。
いつの日か、別れが訪れるだろう。だが―――自分は笑って逝けるような、そんな気がする。
もうじき、放課後を告げる鐘の音が鳴る。
そしたら、また彼女はそそっかしく駆けて来るのだろう。