藍色の来訪
取り立てて変わったこともなく、極めてつつがなく済んだ朝食の後、俺は再び部屋に戻っていた。ベージュの肩掛けのバッグに手荷物をまとめて、これから街に出るための準備をしているのだ。朝の一件でぐちゃぐちゃになった中身を整えて、必要なものを持ったかどうかを確認し、バッグの口を閉じる。――俺はその段階になって初めて、バッグの側面に付いたジッパーが、半分ほど開けっぱなしであったことに気が付いた。しまった、と思いながらその口を閉じようとしたとき、俺はふと、開いた口のところに何かが引っ掛かっているのを見つけたのだった。
「ん、何だこれ……」
それは、俺の持ち物ではなかった。そういえば、別れ際にバラバラにばら撒かれた荷物を、あの少女は慌ててまとめていたっけ。彼女は地面に落ちた持ち物は拾っていたけれど、おそらく見落としがあったのだろう。俺の荷物に紛れ込んだ分には、気付かなかったのだ。
「……返した方がいいんだろうな」
食われかけのそれを引っ張り出し、手のひらに乗せる。それは窓から入る朝の光を受けて、鈍い銀色に輝いていた。
「この、絵の具……」
俺は腕を組み、思案する。
少女は絵の具を持っていた。チューブの中身はオレンジで、既に半分以上が使われてしまっている。すなわち、彼女は絵描きである。
「しかし、それだけ判ってもなぁ……」
その情報で、彼女の身元が判るわけではないのだ。名前も、住んでいるところも判らないのでは、返しようがない。この街は大都会とまでは言わないが、そこそこ栄えた地方都市だ。ただ当てもなく歩いてひとりの少女を見つけられるほど、小さくもなければ過疎化してもいない。
「困った」
無意識のうちに眉間に変な力がこもっていることに気付き、俺は慌てて表情を解いた――思えば、俺は少女の顔もまともに見ていない。何せ彼女はニット帽を深くかぶり、その目元はまともに伺い知ることすらできなかったのだから。帽子を直すときに一瞬だけ目元が、きれいなオレンジ色の瞳が覗いたような気がするのだが、何せ一瞬の出来事であるからして確実さに欠ける。髪は肩くらいまで伸ばした、茶髪だった。しかし、茶髪の少女などいくらでもいるだろう。ヒントになどなり得ない。服装も極めて普通、敢えて言うなら地味で、実際のところ俺は色合いくらいしか覚えていない。
「こりゃ、いよいよ以ってどこの誰だか判らないぞ……」
諦めを口にしたとき、ふと、脳裏にあることがよぎった。
「……でも、可愛かったよな」
うん、うん、これだけは確かだ。俺はひとり、大げさに首肯をしながら、水を得た魚のように急に元気になった。そして大げさに握りこぶしを掲げながら、はきはきと声に出す。
「そうだ、美少女だ!」
「何が美少女なんですか?」
ふいに、ひとりの部屋にドアの開く音と誰かの声が響き渡る。銀の鈴を転がしたような、軽くて高い、よく知った声だ。
「!」
振り返れば、ドアの前には『彼女』がいた。
「……おはよう、ミア」
それはよく知った、あまりにもよく知りすぎた藍色の少女だった。もう随分と長い間、この声を聞き続けているように俺は思う。今日も、今月も、この見慣れたミアは、俺のよく知る方法で、彼女自身も見飽きたであろう俺を訪ねてきたのだ。
「おはようございます、サトリ。今日も楽しい復習のお時間がやって参りました」
生真面目に、硬い表情を崩さずにミアは言う。『楽しい』とか何とか言っている割に、彼女自身はこれっぽっちも楽しくなさそうな喋り口なのは、いつものことだ。
「……『復習』って、スキップできねぇの?」
「できませんね」
ミアは首を横に振る。
「……先生も律儀なこと」
「まぁ、うちのお師匠様ですから」
ミアはよく見れば判る程度に表情を崩し、わずかに微笑む。
ミア。こいつも美少女といえば美少女。おそらく確実にそうだ。しかし俺が素直にそう思えないのは、きっと彼女との付き合いが長すぎることが原因なのだろうと思う。
藍色の、腰まで伸びた長い髪を持つ彼女は、その特異な色もあって街を歩けば確実に人目を引くであろう。しかし、彼女はおそらく普通の街を歩かない。
藍色の、腰まで伸びた長い髪を持つ彼女は、俺のような男の部屋に入っていくところを見られれば最後、目立ちすぎてたちまち噂になってしまうのだろう。しかしながら、彼女が『そうやって』部屋に入ってくることはまずない。
では、どうやって?
彼女は、自分の家の裏口から入ってくるのだ。
「お師匠様からの言づてがあります」
「ん? 先生から?」
「……『先日夢見をした。そしたら偶然おもしろいものが見えたんで教えておく。サトリ、お前はこの一月に太陽のような娘に出会うようだ。お前の求めるものは彼女が持っているが、彼女には触れることはできない。触れようとすれば、彼女は三つに割れてしまうんだ。無理をすれば灼かれてしまうかもしれないので、くれぐれも無理はしないように。コスト削減の意識がないと、これからの世の中では生き残れないぞ』……」
ミアは、ポケットから取り出した細かい文字がびっしりと書かれたメモを、淀みなくすらすら読み上げた。
「はぁ? 何だよ、それって……」
喋り出そうとする俺を、ミアが慌てて止めた。相変わらず真面目な娘である。
「あ、待ってください。まだ続きがあるんです!」
たっぷりとした深呼吸を挟み、彼女は音読を再開する。
「……『ところで最近、庭でハーブの栽培をするのに凝っている。買ってもいいんだが、自分で育てると愛着が湧いて良いものだ。心なしか、加工したときの品質にも影響する気がする。今度お師匠様お手製ハーブティーを、ぜひ可愛いお前にふるまってあげようと思う。ただし食用ではなく、薬の調合に使うものだからトリップしても知らないぞ。あー、あたしってやっぱり天才! あと、東のあいつが相変わらず腹立つ』……」
「……」
「だ、そうです」
後半、聞かなきゃよかった。
「それ、伝える意味あったのかな?」
「……メモの内容は余すことなく伝えろと言われています」
思わず投げかけた疑問に対して、ほんのわずかにミアが表情を曇らせる。この反応を見るに、彼女自身も先生に振り回されて困り果てているようだ。
「だいたい、『東のあいつ』って誰だよ」
「東の魔術師と呼ばれる『四大』のひとりにして、当代きっての天才のひとりです。西の魔術師の称号を持つお師匠様の、若いころからの喧嘩友達だと聞いていますね」
「知るか!」
やはり真面目に答えてくれるミアに申し訳ないと思いながらも、俺は声を荒げて抗議してしまった。何だかやり切れなくて、そうせずにはいられなかったのだ。
さて、この真面目一徹のミアの師匠――俺が先生と呼ぶその人の正体は、西の魔術師と呼ばれる偉大な魔術師、魔法使いだ。本名は知らない。彼女はこのメッセージが示す通り、融通のきかないところのある弟子とは対照的な人物である。自由で、底抜けに明るくて、料理研究と晩酌が好きで、口を開けばバカばかり言っている。一見するとダメで、それでいてそのダメさ加減がちょっと格好よく見える大人の、ひとつの典型のような女性だ。しかし一方で、前述の通り彼女は帝国と同盟国の合同魔術会議で認められた、実力ある魔術師としての顔を持っている。『四方の魔術師』の称号は、広大なテリシラ帝国領およびその同盟国で、テリシール魔術を真に修めたわずかな者にしか与えられない特別なもの。
早い話が、一種の特権階級である。
「……まあいいや。先生は元気そうだな、安心した」
「ええ、何事もなく平穏無事に」
その弟子ミアはまた、ほんの少しだけ、朱の差した唇を緩めた。その仕草を見て、俺は彼女にさっと向き直った。
「……しかしお前も、いつもいつも遠いところからご苦労さんだな」
それは、彼女たちとの長い長い付き合いをふと思い起こして気が遠くなったからだ。それと同時に、こんなにも永い間、生真面目に役目をこなすこの娘が、とてつもなく哀れに見えてしまったからにほかならなかった。ただ、俺が彼女を哀れむなんて、てんでおかしいことだ。だから、この想いはゆめゆめ表には出せない。
一方で彼女は俺の気など知らぬのか、不思議そうに目を丸くし、首をかしげてはこう言うのである。
「苦になりませんよ。私の『扉』のこと、あなたは知っているでしょうに」
「……まあ、な」
これが俺たちのいつものやり取りだ。
「しかし、もう何年になるんだろう」
扉を渡り永きを生きる大魔術師の弟子と、国を渡り永きを生きる旅人との。