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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
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終章、ある今の話~小さな問いと小さな課題~①

 芸術都市での、最後の朝。

 俺はメルティーナと出会った公園で、彼女から小さな絵を受け取った。それによって彼女の目的は果たされ、同時に俺の目的も達せられた。それすなわち、別れのときの訪れである。

 俺たちは他愛もない会話をしながら、並んで公園を出た。彼女はよく笑い、よく驚き、左右の肩の高さはおおむね合っており、まさしく俺の知るメルティーナ・フラウその人だった。強いて変わったこと、今までの彼女らしくない点を挙げるとすれば、時折見せていた意味の判らない不気味さが、風に飛ばされたようにどこかに行ってしまったことであろうか。彼女の持ち合わせていた分不相応のそれは、彼女の持ち合わせていた分不相応な運命――一緒に嘘をつき続けた、彼女にとっておそらく世界一大事な姉であるとか、何より彼女自身の持つ色鮮やかな画才そのものであるとか、そういったものが結んだ像に相違ない。きっとその像は、メルティーナ自身がそういう運命を切り捨て、あるいは切り開こうとしたこのひと月ほどの出来事を経て、徐々におぼろげになって崩れていくのだろう。何故なら彼女は、彼女を作ってきた理由の半分を捨て去ったのだから。リーナ・アールスという虚像を生み出していた小さなともしびを、吹き消してしまったのだから。それを意識してのことなのか、彼女は俺と歩いている間、決してアリーシャのことは口にしなかった。それを、メルティーナがアリーシャではないというごく当然のことの表明と見るべきか、それとも。なんにせよ俺は、その事情に踏み込む資格を持たない。

「メルティーナはこれからどうするんだ」

 とはいえ、名声を脱ぎ捨てた彼女のこれからは気になった。芸術都市に残るのか、別のところに流れていくのか。リーナ・アールスが消えてしまった以上、彼女はただの若く名もない絵描きなのだ。

 俺の問いを受け、彼女はううん、と唸る。自転車のハンドルを握る手にわずかに力を込めて、どことなく固い表情で、彼女はかごの中の絵の具箱を見つめた。

「どうしよう、かな。ここに居づらくなるような気もするし、名前さえ変えれば意外とどうにでもなる気もするし。遠くに行ってみたい気持ちもあるし、慣れない土地への不安や資金面の心配もあるし……」

 芸術都市は雑多で、ごった煮的で、案外いい加減なのだと彼女は笑った。とはいえ、リーナ・アールスが多少なりとも話題になったことも事実であるから悩ましいとも言う。まあ、若い彼女の気持ちを考えれば当然の迷いだろう。

とはいえ、彼女にしては、めずらしく煮え切らない返事だ。

 それだけ、運命を変えようとするのは難しいということだろうか。

「でもね、あたし単純にしあわせになりたいんだよね。リーナじゃなくて、あたしが。だって人として生まれたんだもの、そういう欲求は至極一般的で当然だよね?」

 彼女は顔を上げ、まっすぐに俺を射抜いた。その眼は陽を受けて輝き、ひと揃いの小さな空のようだった。いや、空はひとつなのかもしれないが、俺は詩的表現が苦手であるのだから、そんな指摘は野暮であろう。とにかく、彼女の瞳は将来への希望に満ちていたのだ。たとえ、そこにどんな苦悩が待ち受けていたとしても、そんなことはものともしない気概をたたえて。

「ああ、当然だろうよ。俺だってしあわせになりたいさ。メルティーナの家の前の花だって、同じようにしあわせになりたいはずだぞ、多分」

「もう、ニンゲンの話だって言ってるじゃない!」

 少しからかってやると、表情を七色に変えて反応を示す。こいつは、本当に人間らしくてかわいらしい少女だった。これで、彼女の抱えていた課題もおおむね解決できたと言うべきなのだろうか。

 ただひとつ、『姉のこと』を除いては。


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