二月二日~終わりの終わり~④
「これはね、そんなに遠くない昔の話」
俺の言葉を受けたメルティーナは、空を見上げてぽつぽつと語り始めた。
「あるところに、さびしがりの女の子がいました。女の子には、遊び相手がいました。実の妹です。女の子は、ごっこ遊びが大好きで、とりわけ気に入っていたのは、誰かを救うヒーローごっこでした」
いきなり始まった、絵のない昔話。俺は面食らいながらも、ただただ、黙ってそれを聞く。
彼女の声に耳を傾ける。
「女の子は、満たされませんでした。理由はよく判らないけれど、何となく満たされない日々を送っていました。そんな女の子の心を癒してくれるのは、ヒーローごっこでした。遊んでいる間だけは、自分よりも弱い、自分よりもかわいそうな人を救うヒーローになれる。女の子は、いつも空想の中で誰かを助けていました。やがて、そのかわいそうな人は、女の子にとって『妹』という形で集約されていきます。もちろん、実在する方の妹ではありません」
それが、何についての物語なのか。聞く前から解っていた。しかし、その正体がここで改めてはっきりする。
それは。
「女の子には、もうひとりの妹ができました」
それは、彼女たち姉妹の話だ。
俺がいともたやすく察したところで、メルティーナは語るのをやめた。代わりに彼女はただ、ただ何も言わずに俺のことを見つめていた。宝石のような瞳で。朝も昼も夕も、すべてを含んだような、光に満ちたまなざしで。
彼女はため息をつく。それは、吹き抜ける風に流されどこかに消えた。
「ね。あたしたちは小説家じゃないから、おもしろい話は書けないの。いろんなことが欠けてるあたしたちは、いつでも不自由。あたしたちの持つ物語のタネは、こんなもの。本当に本当に、つまらない」
ふたたび、ため息。
それがくだらない自虐でも不要な謙遜でもない、彼女の心からの声であることは、いくら鈍い俺といえど、感じることができた。ただ困ったことに、この場でメルティーナやその姉妹たちに掛けるべき言葉が見つからない。彼女を慰めるべきなのか、どうするべきか、今の俺にはさっぱりなのだ。
「あたしたちは、問題だらけの欠陥だらけ。世間の人が言うような天才少女なんかじゃない。天才の称号なんて、くだらないよ」
おのれの無力感にこめかみを刺される俺の横で、彼女もまた、おのれの無力感に頭をわしづかみにされているようだった。俺に言わせれば、どんなに優れているとされる人間にだって欠けたところは山のようにあるし、むしろ優れているがゆえに問題が先送りにされ、取り返しのつかなくなってしまった人間だって珍しくないのだから、メルティーナのように言葉が通じるだけでもかなりまともな人間であると思えてならないのだが。事実そんな人間は山のように見てきたし、メルティーナなんかは、あらゆる意味でひよっこだ。ただ、まあ、若い彼女が自己の在り方に悩むのは悪いことではないという押し付けがましい老婆心から、この場では何も言わないでおく。
俺の沈黙を是と受け取ったのか、メルティーナは話を続けた。こう、放っておくといくらでも話し続けるあたりは、何だかんだでアリーシャによく似ている。たとえ、お互いがお互いをどう思っていようと、彼女たちはまぎれもなく血のつながった姉妹なのだ。
「――あの『リーナ』だって、あたしが昔に描いたものなの。お姉ちゃんの傷が、痛むようになったころだったかな」
彼女は何もない空を見上げる。
俺もつられて、高い高い空を見上げる。そこにはペンキをぶちまけたような空が、誰を羨むでもなく横たわっていた。
「お姉ちゃん、すごく喜んでたよ。リーナにまた会えたって。『ずっと昔に死んでしまった妹』に、また会えたって……」
もう何度目かのため息。
「彼女はあたしの才能に救いを求めた。あたしの才能は、もともとそんな彼女を救うためのものだった。彼女のためのその行為が結果的に、かわいそうな『妹』――リーナの存在を、より強固にすることになってしまったんだよね。彼女が、自分よりさらにかわいそうな存在を得て、心を落ち着けるためだけに生まれた妹。生み出したのは彼女だけど、確かな姿を与えたのはあたし。あたしたちは、ふたりでひとり。欠陥だらけの、半人前――」
メルティーナは視線を真正面に戻した。そして、もう脱ぎ捨ててしまったニット帽の代わりに前髪を軽く引っ張って、悲しげに、低く低く重々しく、つぶやいたのだ。
「あたし、うそつきだ」
うそつき。天才をやめることにしたメルティーナが、何者でもない自分に対して初めて下した評価だった。彼女の意思は尊重したいが、それではあまりに悲しすぎる。俺は一呼吸だけ間を置いて、その一点だけは否定しておいた。メルティーナは弱々しく笑って、ただひとつだけ、ありがとうと、そう言った。
「あたしたちが演じるべきリーナなんていなかったの。全部、お姉ちゃん――ううん、あたしとお姉ちゃんの頭の中にしか、かわいそうなリーナはいなかったんだ。あたしはそれが、少しだけうれしい。変なやつだって思われるかもしれないけどね」
俺は、もう一度空を見上げた。隣の彼女が同じようにしているのか、はたまた全然別の方向を向いているのかは、判らなかった。空は相変わらずきれいで、誰のものでもなくて、何の感情も持ち合わせていなかった。ただ朝の光を届けるためだけに、ただ世界のすべてを引き立てるためだけに、空は俺たちの上に在った。俺に芸術のことは相変わらず解らなかったが、それは何だか、絵を描くためのキャンバスに似ているような気がした。
そうだ、と、横でメルティーナがつぶやく。彼女は荷物満載の自転車に駆け寄ると、何やら荷解きのようなことを始めた。しばらくその様子を見守っていると、やがて彼女は布に包まれた何かを手に取り、どこか照れくさそうな様子でベンチに戻ってきた。
「あのー……」
メルティーナは俺の真正面に立つと、両手に持ったそれを背中に隠し、もじもじと身体を揺らしたかと思うと、ほどなくして黙りこくってしまった。見れば、顔はいつになく赤面しているし、冬だというのに額は汗ばんできているし、何だか奇妙な感じだ。彼女は視線をあっちにこっちに所在なく動かしつつ、決心がつくのを待っているようだった。
そこから、何分か経過したところで、彼女はやっと、背中に隠したそれを前に持ってきた。そこからさらに五分ほどかけて、ようやくそれは、俺の目の前に突き出されたのである。
「これ!」
彼女は叫ぶように言った。
「これ、昨日の夜に描いたの。とはいっても、ほとんど下絵のようなものなんだけど。何だか今のあたしじゃないと描けない気がして、それで何とか渡せるようにしたくて……」
彼女は赤面したまま、俺の顔をまっすぐに捉えてまくし立てる。これではまるで、愛の告白でも受けているみたいだ。
彼女はその後も早口で何かを言いながら、どこかたどたどしい手つきで、突き出したそれに掛けられた布を剥いでいく。顔は、ますます赤くなっていた。
「えっと、こ、この絵、お兄さんにあげる、ね! こんなので申し訳ないんだけど――あはは、何だか恥ずかしいな。まるで、初めて誰かに絵を見せたときみたい――」
手にした小さな絵を俺に押し付け、彼女は先程とは打って変わって晴れやかに笑う。額に浮かんだしずくをぬぐいながら、彼女はひとり、けらけらと笑った。俺はつられて笑顔になりながら、彼女の渡してくれたそれに、視線を落とした。このやさしい空にも似た小さなキャンバスに描かれているものに、自分のすべてを以て対面するために。
それはメルティーナ自身にそっくりな、満開の花のような笑顔を見せる少女の絵だった。




