食堂の男
午前七時半。波乱を大いに含んだ早朝の散歩を終え、俺は宿に帰っていた。束の間の空中遊泳のおかげで埃まみれ、土まみれになってしまった身体を熱めのシャワーで清め、丁度代えの洋服に着替え終わったところだ。最後の仕上げに髪を乾かし、後ろでひとつに束ねてようやく身支度が完了する。
「ちょうど朝飯の時間かぁ」
部屋の時計をふと見遣り、俺は階下の食堂へ降りていくことにした。
「おはようございます」
俺は手際よく食事を運ぶ宿のオーナー夫婦と、すでに食卓についているほかの宿泊客たちに声をかけ、焼き立てのパンの香りが漂う席についた。街の中の狭くて小さな宿であるここでは、食事はおのずと客一同で長いテーブルを囲んで摂ることになっていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「よう」
食事の用意をするオーナー夫婦、そして気さくな客たちは各々、思い思いにあいさつを返してくれた。何と幸運なことに、ここの宿泊客は親切で穏やかな人が多い。そんな彼らが、まるで以前からよく知っている仲のように接してくれることを、俺は数日間の滞在で知っていた。いつもはこういった交流の後に食事が始まるのだが、俺は今朝に限って、前日にはなかった違和感を感じ取っていた。
「……ん?」
そして、それの正体はすぐに露見する。それは俺のすぐ隣の席に座る、見慣れない若い男だ。よれたシャツを纏い、顎に金色の無精ひげを生やした彼は、厚いレンズのはまったメガネをかけ、小難しい顔で黙りこくったまま新聞を読んでいた。歳のころは三十前後といったところだろうか。今初めて見かけるということは、昨日の夜からの新しい滞在客なのだろう。彼はどういう人で、ここに何をしに来たのだろうか、そして――。
「……俺の顔に何か?」
そんなことを考えながらしばらく男の様子を観察していたためだろうか、彼は怪訝そうにこちらを見る。
「ああ、すみません。初めて見かける人だったので、つい」
「……そうか」
男は納得したのか、再び紙面に視線を落とした。どうやら、チェックしているのは経済面らしい。彼は無精ひげをいじりながら、紙面の隅から隅まで目を通しているようだ。その様子はかなり熱心なものである。
「あの、そろそろご飯が来ますよ」
ひとつのことにあまりにも熱心すぎる人物を見ると、却って心配になってしまうという経験は誰にでもあるだろう。俺はそういうおせっかい精神に基づき、新聞に夢中な彼に声をかけてみた。
「……ああ、そうか。ありがとう」
彼はふう、と一息ついて、新聞を元のラックに戻しに行った。礼を言うときも難しそうな顔であったことから察するに、あの表情は生まれつきらしい。ほどなくして席に戻ってきた彼に、俺は再び接触を試みた。旅先でちょっと変わった人を見ると絡んでしまうのは俺の悪い癖であるが、まあ、楽しいので治す気はない。
「あの、おはようございます」
「ああ、おはよう」
男は俺の顔をきちんと見て、ややぶっきらぼうな口調ではあるがあいさつをしっかりと返してくれた。相変わらず難しい顔ではあるが、見た目の印象よりも男は親切丁寧な人であるようだ。よし、これならばもう少し無駄話を吹っ掛けても怒られまい。もちろん限度はあるが。
「あの、随分熱心に読まれてましたけど、新聞はお好きなんですか?」
「ああ、ただの日課だ」
なかなかの勉強家のようだ。もしかしたら、どこかに投資でもしている人なのかもしれないな。
「あの、こちらには昨日から?」
「ああ、そうだ。昨夜の九時ころに着いた」
見立ての通り、やはり彼は昨日の夜からの新しい客だった。
「ご旅行ですか?」
「ん……」
今まで俺の質問に淀みなく応えていた男が、ここで初めて言葉を詰まらせた。途端、今まで会話に夢中で耳に入ってこなかった、周りの客の話し声や様々な物音が一気に流れ込んでくる。――まるで、自分たちだけが時間の中州に取り残されていたような気分だ。そこで俺ははたと気が付く。もしかしたら、男には返答しづらい事情でもあるのかもしれない。
「……すみません、失礼なことを聞きましたか」
「……いいや、構わないよ、少年」
心なしか先ほどよりも穏やかな表情で、男は首を振って静かに答えた。
少し、調子に乗りすぎただろうか。彼の親切さに甘えてしまったのかもしれない。さすがにこれは、マナー違反だ。俺はもう、それ以上は何も尋ねないことにした。
ちょうど言葉の投げ合いが途切れたそのころ、食堂の方から宿のご主人が、素人から見れば不思議なくらいの数の、色鮮やかなサラダ皿を、両手いっぱいに抱えた姿で客たちの前に現れた。それまで思い思いに過ごしていた老若男女の客たちは、待ってましたと言わんばかりに一斉に姿勢を正す。その様は、あたかもおやつを心待ちにする幼い子供のようだ。そんな彼らに、ご主人は毎朝お決まりとなった質問を投げかける。
「さあ、牛乳を飲みたい人は?」
その朝は俺と、俺の隣の男だけが牛乳を希望した。