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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
49/52

二月二日~終わりの終わり~③

少女のため息で、俺は改めて自分の目的を右手に握りしめる。ここに来る、来てしまうに至った目的。納得のいかないたったひとつのこと。それを暴いてしまうこと。秘密の一端を知るはずの彼女が口にしようとしているそれは、まさしく俺の知りたかったことに迫る道筋そのものだった。そして彼女は、それを自覚しているのだ。

「お兄さんは、それを知りたくて来たんでしょう。あたしたちに、納得がいかないから来たんでしょう。違うかな?」

 ここに至って、自分の目論見をごまかす必要などなかった。俺は静かにうなずくと、賛辞を込めて彼女の言葉を肯定した。

「いいや、違わないよ。メルティーナはすごいな、何でもお見通しだ」

 メルティーナは特ににんまりするわけでもなく、淡々と賛辞を受け取ってポケットにしまいこんだ。そのさまが何とも言えず芸術家然としていて、俺は今更ながら、彼女の職業が何であるかを思い出した。彼女は俺の目の前で散々絵を描いているし、今だって絵の道具を広げているのだが、どうしてか、俺は彼女を職業絵描きだと思うことがあまりなかったように思う。彼女が絵を描いていることはとても自然なことで、それは仕事という、ただの生活のための行動では決してないのだと、俺は思っていた。天職とでも言うのだろうか、彼女は息をするだけで絵描きになることができ、彼女の嗜好と才能は彼女の人生にぴたりと一致しているのだ。それは裏を返せば呼吸のひとつひとつさえもが絵を描くための手段であり、すなわち彼女が歩むのは絵描きという業から逃れられない人生だ、とも言えるのだが。

 まあ、そんなことは、彼女が誰よりも自覚しているのだろうから、わざわざ俺に言われるようなことでもあるまいが。

「……お兄さんは正直だね。あたし、そういうのって結構いいと思うな」

「そりゃ光栄なことで」

 適当極まりない褒め方だ。したがって、俺の返事も適当極まりないものになる。当然の帰結だ。

 ところでメルティーナは、俺を適当に褒めたっきり黙ってしまっていた。指先を意味なく絡ませて遊んでは、それをほどいて所在なくさまよわせる。彼女はしばらく、そんなことを続けていた。俺は、彼女を待った。寒空の下、風が時折吹き抜ける公園で、彼女の隣で、彼女の言葉を待っていた。待っている最中、その姿が滑稽であるとか、卑怯だとか、大人げないとか、俺の中の知らない大人がしばしば俺を非難した。それもまた、当然だろう。俺は彼女が疑問に答えてくれるまで、ここから立ち去る気などなかったのだから。口では何と言おうとも、俺が彼女に秘密を告白させることを強いていることに、間違いはないのだから。

 そういう後ろめたさがあるからだろうか。俺は、メルティーナの顔を見ることができなくなっていた。見てはいけないとさえ、思っていたのだ。

 罪深い。俺はひとりで、自分自身のことをそのように評していたし、自分を非難することで勝手に盛り上がっていた。隣にいるはずの当事者たる彼女を、置いてきぼりにして。これは本当に、俺自身も自覚しているよくない癖だ。罰されれば許されると思っている。誰かに非難されれば生きていられると思っている。昔から、この点だけは本当に成長しない。変わらない。

馬鹿か。本当に、馬鹿か。

 ――間違いなく、馬鹿なのだろう。

 思考が堂々巡りを始め、それにも飽きて過去に意識が向いたころ、メルティーナがようやく言葉を発し始めた。それは鈍色の、重く深い声色だった。

「……あたしね、疲れちゃったんだ。だから、お兄さんには感謝してる。本当だよ」

 彼女の言葉は、滑らかだ。ただ、その言葉をすんなり受け入れることは、俺にはできなかった。

「お兄さんが、あたしたちの状況を変えてくれたんだもの。あたしが絵を描く理由を、変えてくれたんだもの」

 彼女は俺の肩に触れた。その瞬間、コート越しにもかかわらず、じんわりとした温かさが伝わってきた気がした。予想になかった感触に、俺は弾かれるようにして彼女の方を向いてしまった

 するとそこには――。

「あたしはもう、アリーシャのために絵を描きたくなかった。彼女のおとぎ話に付き合う気力は、とっくの昔になくなってたの」

 宝石のような瞳で、まっすぐに俺を見つめるメルティーナの、穏やかな微笑みがあった。

「……!」

 俺は、ほかでもない彼女になじられることを望んでいた。恨まれることを望んでいた。だがどうだろう。実際の彼女は、罵るどころか感謝の言葉で俺を包もうとしている。何もかも、こちらの望みとは正反対もいいところ。彼女は、俺の思いどおりになど動いてくれなかった。

「……あなたは、本当に疑り深いんだね」

「ああ……悪い」

 彼女の視線は、表情は、髪の毛は、指先は、すべては、彼女に一切の嘘や濁りがないことを、雄弁に語っていた。

 これ以上、自分の罪悪感を理由にして彼女を信じないのは、さすがに失礼だろうか。

「あたしのこと、信じてくれるかな?」

「……信じるよ」

 この瞬間、俺はメルティーナ・フラウという人間に降伏することを決めたのだった。


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