二月二日~終わりの終わり~②
リーナを『やめた』。そう言って、メルティーナは絵を描く手を止め、持っていた鉛筆を造作なくベンチの上に置いた。そんなところに置くなんて、鉛筆がどこかに転がってしまわないかとはらはらしたが、彼女にとってそれは、いつも通りの行動らしい。
彼女は膝に乗せたスケッチブックの上に頬杖をつき、俺の顔を見上げてにこりと笑う。
「ふふ、やめちゃった」
「……随分、うれしそうじゃないか」
メルティーナの顔は、何というか、にやけていた。彼女はそれが当たり前だと言わんばかりに、その表情を隠そうともしない。そしてあろうことか、広げていた商売道具を適当に――本当に乱雑に、適当に――どけて、俺に自分の隣に座れと言うのだ。
「えへへー」
「なんだよ、気味が悪い」
崩れた表情のままのメルティーナ。俺は、どうにもそれが気に食わなかった。違う、そうじゃないだろう。お前がするべき顔はそうじゃない。俺は、そう言ってしまいたくてたまらなかった。この自分の中にある灰色のもやもやを、正面から彼女に押し付けてしまいたかった。ただ、正直に言うのはさすがにはばかられるからと、ほんの少しだけ遠回しな言い方をする。実は、そうする方が、こんなつまらない作戦をとる方が、よほどずるいし悪いのだが。
「お前は、メルティーナは、悔しくないのか。恨まないのか。その、俺の……」
俺は、罰されたかったのだ。ほかでもない、彼女自身に。だが、思い通りにならないのが他人というもので、あるいはメルティーナという人で。上手くは言えないが、やはり彼女は彼女だった。
俺の期待を、見事に裏切るのだ。
「うん。どうして?」
彼女は春の陽気のように、極めて朗らかに答えた。当然ながら、俺は納得がいかずに反論した。我ながら、図々しいことだ。
「どうしてって、お前はやっと有名になり始めたリーナの名前を使えなくなったんだぞ? 名声を、もっと言うと財産をも失ったんだ。俺が現れたから。そんなの、恨んだって当然だろう。普通に考えれば解る」
言い終えると同時に、つう、と弱い風が背中の方を吹き抜ける。メルティーナはきょとんとした面持ちで俺を見ていた。どちらも、何も言わない。しばらく、そんな無言の時間が流れる。そして、どれくらい経ったのだろうか。メルティーナが小さく息を吐いた。すると俺の顔から視線を外して、どこか呆れたような声色で話し始めた。
「お兄さんは変なことを言うね。あたしがリーナの名前に固執しているとでも思ってた? そんなものに興味があるとでも? あたしにはメルティーナっていう名前があるの。それは、リーナなんかじゃない。あたしはリーナじゃない。それに、お兄さんは傷つけられこそしたけど、あたしを傷つけようとしたことがあった? 自分のせいなんてばかみたい。あなたは道を歩いていたところを、運悪く通り魔に目をつけられただけだよ。普通に考えれば解る」
「……」
作戦失敗。言い返す言葉もなかった。
「お兄さんは、あたしたちのことを知らないんだよ。だからそんなこと思うし、言うの。本当にあたしやアリーシャやリーナのことを知ったら、そんなこと言おうと思うわけがないよ」
メルティーナは、大きくため息をついた。




