二月二日~幕間・魔法使いの弟子~
「やっと、やっとですね。ようやくあなたは、一月の課題を達成しました」
長らく世話になった清流亭から出立した俺は、ヴェーシスの外れにある小さなカフェでミアとともにコーヒーを飲んでいた。ミアは、藍色の髪の毛やら何やらの容姿のせいで非常に目立つ。そのため、こうして外に出るときは帽子やかつらを身に着け変装していることが多い。今日もまた、彼女は無難な黒髪のかつら(ウィッグと呼べ、と怒られた)を被って、縁の太いメガネをかけている。香りのよいコーヒーをたしなむ彼女の顔は、非常にご機嫌だ。
「……」
「おめでとうございます! ここまで本当に長かったですね……。ほら、サトリがもたもたしている間に、超大作小説として世界的に有名な『望星物語シリーズ』が完結してしまったじゃないですか。これは、本当に大変なことですよ」
ミアは、発売されたばかりの分厚い最終巻を手にして小躍りしている。この様子を見るに、こいつはよほど、この本について俺に話をしたいらしい。フロレンスという作家の、とりわけ『望星物語』の新作が出るたび、ミアは毎度この調子である。俺がそんなミアを無視してコーヒーをすすっていると、彼女は促すまでもなく、ひとりで勝手におしゃべりを始めた。
「『望星物語』と言えばやはり、主人公の青年と従者の女性の歯がゆい恋模様ですよね。彼女との絆なくして、主人公の安心感のある立ち回りもわくわくする大冒険もあり得ないと言いますか……」
ミアは昔から『望星物語』が大好きだった。それこそシリーズが世に出て間もないころから、この人を殴り殺せそうな書籍群は、彼女の数少ないお気に入りのひとつである。こいつという奴は、高名な魔術師の弟子として勉強なんかをしていながら、結構夢見がちで子供っぽいところが抜けない娘なのだ。とはいえ『望星物語』なら俺もミアに借りて読ませてもらっており、それなりに気に入っている。かつ、作者のことも知らないわけではないので、普段なら彼女の話に付き合っているところなのだが。生憎今は、そんな気分になどなれなかった。
「……ずいぶんと、浮かない顔をしていますね?」
ミアは、上がりきらない心の温度をいち早く察知する。もとよりごまかせるなどと思っていなかったが、俺は仰々しくため息をつき、首を大きく横に振って見せた。それは浮ついた心地の彼女に対する嫌味であり、一方で沈みきった俺自身に対する戒め。いずれにせよ、一切の生産性を備えない、虚しいパフォーマンスだった。
もうひとつ、ため息。そして、吸う。
吐く。
「だって俺、なんにもしてねえもん」
吐ききる。
口をついて出たのはミアの、あるいはその背後に在る先生の言うところの課題。その『最難関』を乗り越えた俺自身の抱く、たったひとつの本音だった。
「あの姉妹の間に無理矢理割って入って、親切のふりして適当に引っ掻き回して、しまいに姉の方が自滅するのに巻き込まれただけだろ。なんにもしてねえ」
香りを空気の流れに乗せるように、コーヒーカップを意味もなく傾ける。途中、アリーシャに刺された方のわき腹が傷んだような気がして、俺はついつい顔をしかめてしまう。
ミアは、そんな言葉は想定内だと言わんばかりのしたり顔で、俺をたしなめた。俺はそれが気に食わなかった。とは言え、それは彼女の虚勢であることは互いに理解している。本当の気持ちではないことを言わなければいけない事情が、彼女にもあるのだ。
俺たちはほんのわずか見詰め合い、また、逸らす。
会話に戻る。
「あの姉妹の個別具体的な事情は俺たちには一切関係ないっていう、先生の主張も解らなくはないんだけどさ。なんか、なんだかな。俺には解らない。先生が何を考えてこの課題を――」
「だから『最難関』なんでしょう? お師匠様は、『解らない』をあなたに与えた。身を貫くような虚しさを呑ませた。あなたは『解らない』からそれに浸ったし、『解らない』を解ろうとして深みにはまっていった。あなたがこれまで一月を越えられなかったのは、『解らない』から逃げていたからでしょう?」
「……相変わらずだ」
「ええ、本当に悪い人間です、あの人は」
俺は、珍しく先生の悪口を言うミアと、しばし笑いあった。しばらくそうしてのんびりと語り合っているうちに、ミアが先生と交わした約束の時間が近づいてきた。どうやらこの後、ふたりは知り合いの魔法使いたちと『望星物語』完結記念パーティを開催するらしい。ちなみに男子禁制らしい。そもそも参加する気すら起きないが。
「なあ、ミア」
俺は時間を気にし始めたミアに、慌てて声をかけた。目をぱちくりさせる彼女に、オレンジ色の布に包まれた平たいものを差し出す。
「これ、メルティーナからもらったんだ。よかったらお前のところで飾ってもらえないかな」
絵入りの図鑑ほどの大きさをしたそれを、俺はミアの手に取らせた。彼女に布をめくってみせるように促し、そのまま、おそるおそる動かされる彼女の指先を見守った。
ほどなくして、ミアの手によって布は外され、中のものが暴かれた。彼女はまず目を見開き、次に輝かせ、とびきりの誕生日プレゼントをもらった子供のような面立ちで、俺に驚きと歓喜の視線を投げかけた。
「いいんですか?」
「ああ、いいよ」
俺はうなずく。
「俺はどうせ流れの身だし、見る人がいないとせっかくの絵が腐っちまう。それならミアに楽しんでもらえた方が、絵も作者も喜ぶよ」
偽らざる本音。それは、ひとりの絵描きに対する畏怖と尊敬の念。それと、彼女の生み出す極彩色の世界を愛する心。そして――。
「メルティーナさんの絵、素敵ですね」
絵を受け取ったミアは、極彩色に負けないくらい晴れやかに笑った。




