極彩色の神さま
アリーシャは、妹を捕まえる手をわずかに緩めた。
「リーナを殺せば――あなたの描いたものを否定すれば、きっとあなたは傷つくでしょう。あなたの才能は形を伴っている。形になったものを壊されるのは、あなたにとって何よりつらいはずだわ」
あなたのことは解っているのよと言わんばかりに、アリーシャは口角を歪める。その笑みは日常の場にはおよそ似つかわしくなく、有り体に言えば非常に気味が悪い。
「私の愛するあなたは、私の愛するリーナの姿をこの世に留めてくれた恩人よ。そして、私には絶対に不可能な方法で、リーナの夢を現実のものにし続けていてくれる。私はそんなあなたを妹として愛し、たったひとりの家族として宝のように思い、超えられない存在として嫉妬し続けている。今も昔も、リーナがいなくなってからずっとね」
彼女は笑い交じりに言った。
確かに以前、彼女は自分自身の才能と妹の持つそれとを比べていたことがあった。彼女の腕は徐々に動かなくなっているのだと。リーナの役を演じるには適さなくなってきているのだと。それは、彼女自身も妹も認めていることだった。そしてそんな彼女が、妹を自分が絶対に追い越せない存在として語っていたことは忘れようもない。それが単なる憧れなのか、それとも彼女の言うように嫉妬だったのか――どちらが本当かと言われたら、きっとどちらも本当だったのだろう。
彼女、アリーシャは妹の額から離れた。握っていた手も解放した。そして肩をひねって俺を一瞥した後――アリーシャは、妹の身体を抱え込んだ。
姉に抱きすくめられたメルティーナは瞳いっぱいに困惑の光をたたえ、助けを求めるように俺に視線を投げかけている。俺は半歩、彼女たちの方に足を進めるが――それを牽制するように、再びアリーシャの首がこちらを向いた。アリーシャの目ははっきりと、俺のことを邪魔者だと言っている。
「――そこにいる彼、サトリさんを傷つけることで私が貶めたかったのは、本当のリーナじゃない。今、リーナを演じているメルティーナ。あなたよ。本当のリーナは、私たちがどんなに汚れたって、あなたがどんな批判に晒されたって、あなたの絵が失われてしまったって、私の心の中にずっと生き続けているんだもの。でも、あなたはそうじゃない。芸術家としての『リーナ・アールス』の名前に傷が付けば、あなたはこの名前で絵が描けなくなる。絵を描くことそのものはできたとしても、この名前はもう使えない。そうすれば自然と、今までの評価を棄てざるを得なくなる。顔だって結局出せないままだわ。だって、私たちは世間的には嘘つきだもの。わざわざ芝居をうってまで、たくさんの人をだまして、存在しない少女の像を演じている嘘つき。ただの道化師。ねえ、お天道さまの下で本当のことが言える? エゴのために妹のふりをしていましたって、言える? 言えないわよね。私なら言えないわ。あなたは私の行いによって、何もしていなくても殺されるの。絵描きとしてのリーナは、死んでしまうのよ。それって、とっても滑稽じゃない?」
メルティーナの顔が硬直している。
アリーシャはなおも続けた。正直――聞くに、堪えない。
「彼は他人よ。それに、どこか遠くの人。知らない人のことなんてどうだってよかった。まあ、何故か彼はぴんぴんしているけれどね。それに、あなたの絵が破かれたのだって、彼のせいよ。彼が死ななかったから。窓の下を見て、私はすぐに彼が生きていることに気付いたわ。それで、いらっときちゃったのよね。し損ねたという結果が気に食わなかったの。それで、破いちゃった。どうにかこうにか、あなたを否定したかったから。リーナの姿を描いたものを破くのに、抵抗がなかったわけではないけれど――結局は絵だもの。いざやってみたら、本当のリーナじゃない色つき布の一枚を破くことなんて、何ということはなかったわ」
アリーシャは、メルティーナを解放した。彼女は興奮して息が上がっているようだったが、メルティーナは焦点の合わない目でうつむいている。無理もない。アリーシャの言っていることは――正常じゃない!
俺はふたりの間に身体を滑り込ませた。アリーシャに背を向け、メルティーナの肩を抱くようにして、彼女を姉から引きはがす。
「もういいだろ……!」
アリーシャは満足そうににんまりと笑った。そして俺の向こう側の妹に向かって、なお言葉の刃を向けた。まるで俺のことなど見えていないとでも言うように。
「メル、あなたは『本物』よ。でも、あなたの絵は偽物。所詮はリーナの写しなの」
アリーシャは、例のイーゼルからキャンバスの張られていた木枠を持ち上げた。彼女はそれを持ったままこちらに向き直り、木枠を額縁に見立てるようにして、俺とメルティーナの前に掲げた。
「あなたはリーナのためによくやってくれた。本当に絵の才能に恵まれていた。でも、リーナじゃなかった。結局は私と同じ、リーナの偽物」
しばらく木枠をくるくるともてあそんだ後、彼女はそれをもとの場所に戻した。
「私は疲れた――リーナを演じること。あなたに演じさせること。偽物のあなたに、嫉妬し続けること。妬ましいあなたに、リーナを名乗らせること」
彼女はそのまま、俺たちに背中を向けた。
「私は私に疲れた」
彼女はこちらを振り返ることなく、黙って部屋の出口に向かって歩み出した。俺には止めることもできまい――そう思って、ため息をついたそのときだった。
「……ねえお姉ちゃん、ひとつだけ聞かせて」
姉にあれほど傷つけられたメルティーナが、彼女を呼び止めたのだ。
メルティーナは俺の腕を抜け出して、アリーシャの背中に向かって叫んだ。
「リーナが死ぬ前、あたしは、お姉ちゃんの妹のリーナとどんな会話をしてた? 何をして遊んでた? 覚えてないかな……?」
「……」
アリーシャは、メルティーナの質問には答えなかった。ただ、俺たちに背中を向けたまま天井を仰いで、ぼやくように言ったのだった。
「私は……本当にあなたの才能がうらやましかった。あなたの才能は、私と違って枯れそうにもない。それどころか、枝葉を伸ばし続けているもの。世間でリーナ・アールスが何て呼ばれているか知ってる? 『楽器演奏もこなす若き画家』よ。主役はあなた、私はおまけなの。それに何より、あなたは神さま。リーナにとっての、神さまでしょ」
メルティーナは、何も言わなかった。
アリーシャは、腰から上だけをこちらにひねって、俺に向かってひらひらと手を振って見せた。わずかに伺える彼女の顔は――。
「さようなら、化け物の旅人さん」
アリーシャは、アトリエを去った。去り際の彼女の顔は、非常に晴れやかだった。




