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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
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灰色の神さま

 他人、それは自分の外側。ほかの人間。また、相手が自分とは無関係な存在であることを強調する言葉。

 化け物。得体の知れない何か。または俺。いずれにせよ、好ましい意味合いで使われることはほとんどない。

 アリーシャは、俺のことを化け物だと言った。彼女がそうやって言い切るだけの根拠は、まあ存在するわけだが。もちろん主観的にも、客観的にもだ。さて、ここで俺は彼女の問いに何と答えるべきだろうか。そんなことを考えられる程度には、俺の頭は冷めていた。化け物扱いされて傷つかないわけではないが、残念ながらこういう言われ方はこれが初めてではないから、衝撃は芯に伝わってくるまでにそこそこ和らいでいる。そして、人はそれを麻痺とか鈍化とか、そんな俺を人でなしとか言うのだ。

 俺は答えあぐねていた。だが、それは心に受けた傷からではない。この極限に張り詰めた、きりきりに緊迫した現場においてもなお、俺に敵意のようなものを向けるアリーシャの言葉にほとんど集中できなかったからだ。それもあって、いくら目の前の少女が泣いていようと、理解に苦しむようなとんでもないことを言っていようと、今この瞬間の自分はこれを何とも思えなくなってしまっている。すっかり冷めてしまっているのだ。

 そう、その原因は言わずと知れたメルティーナ。無言でアリーシャのかたわらに佇む、彼女の存在にほかならなかった。何故なら彼女は笑っていたから。この箱庭を見下ろすような、馬鹿にするような、そんな笑みを見せていたからだ。それにアリーシャは気付いていない。今のアリーシャには、きっと『死んでしまったリーナ』以外は見えていないのだろうから。

「安心してくれ。俺には君の気持ちなんて解らないよ、アリーシャ。それよりも、だ」

 彼女が解るかと問うているのだから、俺は素直に解らないと答えた。アリーシャはやはりそれを期待していたのだろうか、ふん、と鼻を鳴らす。俺は応答するかのように、ふう、とため息を漏らす。ここにきて初めて、この難儀な少女と呼吸が合った気がした。アリーシャとしては、その『姉妹にだけ解るセンチメンタルなものの機微』とでも呼ぶべきものに気安く触れてほしくないのだろうし、解ると嘘をついたところできっと機嫌を損ねるだけなのだ。彼女の望みと俺の本音が一致している今は、案外我々にとってはしあわせな時間なのかもしれない。そう思えるのは、少なくとも俺にとってのアリーシャが、ほとんど――決してすべてとは言わない――の場面において同じ言語と常識の範疇で会話をすることができる相手であるからだ。実際のところ、本当の意味で対応に困ることが多いのは、彼女ではなく妹の方である。まあ、どちらも苦手であるが。

 だからこそ、俺は妹の方に話を振ることにした。先程から不気味なくらいだんまりを決め込んでいる彼女を、俺たちの目線にまで引きずりおろすために。

「なあ、君には解るのか。メルティーナ。君はさっきからずっとそこでにやにや笑って、高見の見物のつもりかい」

 呼ばれたメルティーナは、曇りない笑顔を俺たちに向けた。待ってましたと言わんばかりの、満面の笑み――やはり、彼女はそうなのだ。

「何のことかな、お兄さん」

 彼女は再度、リーナのいたイーゼルをひと撫でする。猫か何か、やわらかいものに触れるようなやさしい手つきだ。その手、その指先を見た瞬間、俺は不思議にも確信を得た。この絵描きは『知っている』のだと。そしてこの場を支配するのは、よく喋る姉ではなく、常に自分の調子を乱さない不遜な妹なのだと。

「君に、リーナの代わりを務める姉の気持ちが解るかと聞いているんだよ、メルティーナ。もっとも、君もリーナなのかもしれないけども」

 メルティーナから発せられる、不似合いなほどに鉛色の重圧。それに抗いつつ、俺は彼女を挑発するようにけしかけた。彼女は一瞬目を見開いた後、幾度目かの笑顔を見せる。俺はこのときやっと、彼女の仕切るゲームに乗る覚悟を決めた。結末は薄ぼんやりと見えてきているが、実のところどうなるかは解らない。恐ろしい航海だが、ここまで来てもう彼女の邪魔はするまい。それが、俺と魔術師との約束でもある。

 俺はメルティーナをまっすぐに見つめる。メルティーナはわずかに目を合わせたのち、ゆっくりと視線を落とす。その先にあるのは先程と同じく彼女の指先と、リーナのイーゼルである。

 彼女は、自分の作品の残骸を切なげに見遣る。そう、たとえこれがどのような名前で、どのような意味を持つ布地であったとしても――間違いなく、メルティーナの分身であるのだ。彼女は濁った白に塗られたキャンバス地の切れ端をもてあそびながら、抑揚のない声でぼやく。さながらその様子は、灰色の曇り空を憂うようだった。

「こんなにぼろぼろになって、かわいそうなリーナ」

 絵描きの少女が、自分と同じ顔をした少女の絵を見つめている。そして、少し引いたところからその絵描きの姿を見つめるのもまた、彼女と同じ顔の少女だ。同じ顔が三つ、ともすればふたつ、それ以上。極めて特殊なこの状況は、唯一違う顔をした他人をひどく緊張させた。常日頃から自分と同じ顔ばかり見ている彼女たちの世界は、一体どうなっているのだろうか。

「アリーシャの気持ちが解るか、だっけ。ええ、そうね……あたしもずっと、『リーナ』として絵を描いてきたんだもの。自分の名前を隠して、アリーシャとふたりで、ひとりの女の子のふりをしてきた。姉妹とはいえ、口裏合わせて秘密を守るのは大変だったんだよ。だって、ひとりはふたりの、たったの半分なんだよ。――いつのころからか、インタビューに出るのはアリーシャの役目になった。あたし、喋りは得意じゃないんだ」

 ふっと、メルティーナの顔からこわばりがなくなった。彼女は手を止め、ゆっくりとこちらに――いや、姉の方に向き直る。

「だから、解るでしょ、アリーシャ」

 彼女の世界が、色彩を取り戻した。

「もちろんあなたの気持ちなんて、あたしはこれっぽっちも解らないよ」

 その色は、彼女が描く乳白色そのものだった。


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