ひまわりの少女
「だ、大丈夫ですか……?」
「……」
クラッシュ。事故の結果は極めて良好だ。見事なこと、この上ない。俺は数メートル吹っ飛ばされ、仮にも空を飛ぶという、人間の身としてはなかなか珍しい経験をした。身体は舗装されていない土の上に投げ出され、着地の衝撃で驚いた猫がどこか遠くへ逃げていった。どうにかこうにか身体を起こしてみると、俺の顔を覗き込む少女は、目深にかぶった茶色のニット帽の上から額を抑え、痛そうな、不安そうな、心配そうな――何だか忙しい顔をしていた。
「……はて、君には俺が大丈夫そうに見えるんだろうか」
少女のことは可哀相に思うが、何せ俺の身体は痛い。心が狭いと思いつつも、言わずにはいられなかったのだ。俺の口を突いて出た言葉を聞いた少女は、次の瞬間泣き出しそうな顔に変わった。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
しどろもどろ。そんな言葉が今の彼女にはぴったりだった。しゃがみこんだ姿勢のまま、彼女は手を合わせ、首を縦に振ってひたすら俺に謝り倒している。いつの間にかその目尻には涙が浮かんできて、高い声もだんだん鼻が詰まったように変わってきて、頬も段々と紅潮してきて――。
「ああ、もう!」
耐えきれなかった。
「いい、いいって。こっちもつい言いすぎてしまって悪かったよ、俺は大したことない。だから君、泣かないでくれ」
「あ、はい! えっと、……やっぱりごめんなさい!」
俺の言葉を聞いた彼女は、またもや謝罪を重ねてきた。その目尻に溜まった雫は増える一方で、そしてとうとうそれは、一筋の涙として流れ出してしまったのだ。
「ちょ、ちょっと! 泣かないでくれよ。俺は平気だから!」
「ご、ごめんなさい! 言うこと聞けなくてますますごめんなさいー!」
泣かないように言えば言うほど彼女の涙は増えていく。どうやら、正面から行くのは逆効果らしい。だったら、どうすればいいんだろう?俺は混乱と衝撃から覚めない頭を回転させるように努めた。
だってこれは、大変なことだ。
異国の地で初対面の少女を泣かせないようにするつもりが、却ってひどく泣かせて状況を悪化させてしまった。俺は激しい後悔に見舞われると共に、今が早朝であることをこの上なく感謝した。もしもこんなところを誰かに見られたら大騒ぎになるかもしれないし、それはきっとお互いにとって有益なことではない。万が一あいつに知られでもしたらもっと大変だ。こうしている間にも、俺の混乱と少女の涙はどんどん増していく。ああもう、やってられるかこんなもん。俺は、やけになって思い付くままに言葉を吐き出した。
「き、君は人生の喜びというものを考えたことがあるだろうか!」
「……はい?」
俺と少女の間の狭い隙間を、冷たすぎる空っ風が吹き抜けていったような気がした。
「えっと……」
彼女は、泣きやんだ。しかし、ひどく困惑している。俺は、またもや大いなる後悔に満たされた。冷や汗が背中を流れていく。そして俺に呆れたであろうカラスが一羽、俺たちの頭上を鳴きながら通過していった。
ああ。やってしまった。
何を言っているんだ、俺は。半ばやけっぱちになって、思い付いた言葉をそのまま口走ったことは認めよう。しかし、これではまるで怪しい宗教の勧誘じゃないか。
「えっと、あの、違うんだ、その、これは」
「えーっと、人生の喜び、ですか?」
少女は涙を拭って、頭を下げて謝るうちにだいぶずれてしまったニット帽を目深に被りなおしてうつむいた。
「うーん、あたしには難しくて、ちょっと今すぐには答えられませんから、お返事はまた今度でいいでしょうか?」
どうやら彼女は、真剣に俺の戯言を受け止めてくれたらしい。
「あたし、難しいこと考えるの苦手で。ごめんなさい、お兄さん」
ニット帽の少女は、またもや俺に対して謝罪をしてきた。しかしもう、今にも泣き出しそうな表情をしてはいなかった。彼女はすっと立ち上がると、にっこり笑って俺に白くて作りの小さい手を差し伸べてきた。
「お兄さん、立てますか?」
俺は、彼女の問いにすぐに反応できなかった。しばらく、呆けたように口を開けて、彼女の雨上がりの笑顔を見つめていた。いや、見とれていた――とは言え、ニット帽のせいで、目元はよく見えなかったのだが。そんな自分にふと気が付いた俺は、どうしてかものすごく恥ずかしくなって、その間を取り繕うように、しかし結局取り繕えずに、気の抜けきった返事を投げた。
「……ああ、うん」
とりあえず、泣きやんでもらえたからいいか。俺は、そう思うことにした。