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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
38/52

あなたとわたしの白い小部屋

 俺たちはその後も路地を進み、互いに無言のまま、すでに何度も通ったアパートへと到着した。きっともう俺がここに来ることはないのだろう――俺は門を入ったところにある花壇を眺めながら、ぼんやりと終わりの気配を感じていた。

 アリーシャとの間に何があったのか。それを妹のメルティーナに詳しく話すことはなかった。姉が他人を傷つけることでリーナ・アールスを殺そうとしたこと。それをもし彼女が知ったら――というのは表向きの理由で、本当は、彼女自身が俺に話をさせてくれなかったことが大きかった。俺が道中何かを語ろうとしても、メルティーナが言葉を以て、あるいは無言でそれを妨げてきた。もしかしたら、彼女にはアリーシャが何か行動を起こそうとしていたことが判っていたのかもしれないし、ただ単純に俺とアリーシャのことに興味がないだけなのかもしれなかった。その判断を、俺に下すことはできそうにない。しかしながらだ。さすがに『今、あの部屋の中にいるであろうアリーシャ』と何も知らないメルティーナを、このまま会わせるわけにはいかない――俺は、意を決して彼女を引き留めた。

「なあ、メルティーナ……」

 そう、目の前にいる『彼女』の、右肩の少し下がった――その背中を。

「……メルティーナ?」

 守ろうとして、守ろうと――。

 守ろうとした彼女は、くるりとこちらに向き直る。彼女の口角は鋭く吊り上り、瞳はぎらりと輝いている。ごくわずか、一瞬だけそんな表情を見せたのち、彼女は満面の笑みを咲かせた。

「ねえサトリさん、『わたし』が誰なのか解ってないの?」

 背中をひと筋の冷たいものが駆け上がった。全身の毛穴が、ぞわりと音を立てて拡がっていく。

 俺には、見えていなかったのか?

 彼女はわざとらしく、楽器を構えるポーズを見せてけらけらと笑う。まるで、目の前で硬直する俺をあざ笑うかのように。

「ね」

 俺は戦慄した。何に? 目の前の少女か、否、自分自身の傲慢さにだ。何だ、結局彼女のことなんか、見えていなかったんじゃないか。どちらかがどちらかのふりをしてしまえば、もう俺は姉妹の区別をつけることすらもできなくなる。何ということだろう。何たる道化だ。俺は、解ったふりをしていただけだったのだ。

「アリーシャ……!」

 俺は、解ったふりをして、アリーシャのことを傷つけ続けていたんじゃないだろうか。罪悪感をあおるように、裂けたところに塩を塗りこむように、彼女は俺の想いを一字残らず口にする。そう、決して一字一句違えずにだ。

「ほら、名前なんていうラベルを剥がしてしまえば、私がどっちか、誰が誰だか判らない。そんなものよ。そのままの私に価値なんてない。これ以上、リーナの名前に塗りつぶされるものですか」

 彼女は哄笑する。

 彼女は哄笑する。その声が、わずかに花壇の花を揺らしたような気がした。彼女は目を見開いた不自然な表情のまま、まくし立てるように言った。

「それよりも、ねえ、どうしたの? あなたはどうしてピンピンしてるの? ……そう、あなたも『普通じゃない』のね、素敵!」

 彼女は俺に詰め寄ってくる。乱暴に俺の二の腕を掴んで、骨が外れそうな方向へと捻ってみせる。ちょっとこれは平気ではない。彼女は、どうして? 混乱はこの小さな脳みそに収まらなかった。

 ふたたび、アリーシャは唇を震わせる。よほど興奮しているのか、わずかに息が上がっているようだった。なんて、冷静に観察している場合でもないのだが。

「あなたに言われなくたって、私も自分が『普通じゃない』のは解っているつもりよ。殺したあなたが死んでいないって気がついてすぐ、わざわざ妹の服を借りて。あのくさいアトリエで妹に化ける準備をして。妹だって普通じゃないわよ。私を止めるどころか、『これでお姉ちゃんの気が済むのなら構わない』とかイイこと言って、自分の存在を明け渡してくれたんですもの」

 察するに、メルティーナは予定よりも早くアトリエに戻っていたらしい。そこでアリーシャの行いを知り、決して姉を非難せず、あまつさえ力を貸したというところだろうか。

 驚くべきはメルティーナの行動であるが、その真意を推し量っている余裕は、今はない。今向き合うべき相手は、目の前のこのアリーシャだ。

「アリーシャ」

「心配しなくても、妹に何かしたなんてことはないわよ。他人のあなたとは違って、大事な私の妹ですもの」

 彼女はせせら笑う。

「違う、アリーシャ。俺の話を聞いてくれ」

 彼女を責めたいわけではない。もちろん刺されていい思いはしていないが、別に今はそれでも構わない。それよりも、俺は紐解くべきだと感じていた。他人のおせっかいと言われようと、魔術師の手先と罵られようと、この姉妹をこのたちの悪い小部屋から出してやるためには土足で踏み込むしかないのだ。たとえ悪者になろうと、たとえ忘れ去られようと、語られることなどなくても。

 たとえ救いたい相手が、自分を殺そうとした、この彼女だとしても。

「君は誰を守ろうとしているんだ? どうして、どうしてこんなことするんだよ」

 やっとの思いで喉から絞った音を、アリーシャは冷たい――比較的普段の彼女に近い――口調で、すぱりと切って捨ててみせた。

「そんなこと、『どうでもいい』じゃない」

 が、次の瞬間わずかに目を伏せて、首を横に振って、言葉を翻した。

「昔話をしましょう。私とあなたと、妹と」

 それはいつもの、やさしくて妹思いのアリーシャ・フラウだった。そして控えめに俺を呼ぶ彼女の手招きは、底の見えない淀んだ水底への案内のように思えたのだった。


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