「諦める」
終わりに会いに行こう。
ミアに部屋を追い出され(そもそもあそこは俺の取った部屋なのだが)、俺は再び通りへと転がり出た。目的はもちろん、あのアパートに戻るためだった。フラウ姉妹の事情に首を突っ込んだ以上、俺は俺のために『この出来事を終わらせなければならない』――そこに例外はなく、あるとすればそれは俺が死んでしまったときだけだ。あの恐るべき魔法使いの先生、西の魔術師との約束を守るために、俺は抑揚のない足取りで赤レンガの道を抜けていった。自分にとってはいつも、月末のこのときが一番つらいのだ。
逃げることなどできませんよ。あなたも、私も――部屋を出る間際、ミアは俺にそう言った。もう、耳にタコができるくらいに何度も何度も言われているセリフだった。
「逃げられるかよ――逃げられるわけがないんだ」
ほとんど人気のない通りを歩きながら、そんな言葉が口からこぼれてくる。これもまた、ミアに何度も何度も言って聞かせたセリフだった。そこで俺は、はたと気が付く。寂しげな赤レンガ通りの、数少ない通行人――その瞳が、不思議そうにこちらを見ていることに。見慣れたオレンジ色の宝石が、そこにあることに。
これは、どっちだ?
「――ああ」
「こんにちは、お兄さん」
一瞬の沈黙の後、俺は、親しみを込めた彼女の他人行儀な言葉に、ほっと胸をなでおろす。
そうか、これは、メルティーナか。
「ああ、こんにちは、メルティーナ」
彼女、メルティーナはやわらかく微笑むと、俺の足元までちょこちょこと駆け寄ってくる。よく見れば彼女の服にはわずかに擦ったような黒い汚れがあり、トレードマークの帽子もほんの少しだけ崩れている。それらを認めて、俺は改めて思い出した。彼女は、絵の搬入という大仕事を終えた、その帰り道だったのだ。
「搬入、お疲れさま。手伝えなくて悪かった」
メルティーナは首を横に振った。
「いいんですよ。もともと、あたしからお兄さんに依頼していたことの範疇外ですから……お気持ちだけで、十分」
彼女はまた、他人行儀ににこりと笑む。その笑顔からは、わずかに溶き油――と、言うのだったか。あの、癖のあるにおいの液体だ――が香っていた。その香りに頭痛を覚えながら、俺は本題に入るべく目下の彼女に向けて声を発した。
「これから、帰りだろう?」
「そうですよ」
いくら自分の身がかわいいとはいえ、こうやって他人を利用するなんて最低だ。自らの行動を苦々しく呪いながら、俺は目的に向かって彼女を動かそうとする。
「よければ――」
だがしかし、目の前の彼女は俺の言葉を遮って、あっさりと証明してみせた。メルティーナ・フラウは、俺の意思の及ばないところに佇んでいるのだと。
メルティーナは、すべてを見透かしたようにまた――笑った。
「ああ、あたしと一緒に来てください」
「……え?」
俺はたじろいだ。思わず視界が揺れた。光の中で認識が歪んだ。冷たい風に足元がぐらついた。そして実感する。自分の浅い考えを看破されたときの胸の心地は、こんなにも重くて苦いのだということを――今さら、今さら。
メルティーナは、当たり前のように俺の手を取った。そしてわずかに背伸びをして、俺の瞳を覗き込んでくる。
「――アリーシャと、何かあったんでしょう?」
彼女はめずらしく、姉のことを名前で呼んだ。
そしてその言葉は、何から何まで、今日のメルティーナにはすべてが見破られていたことを示していた。
「……その通りだ」
首肯する。同時に、目の前のメルティーナに合わせて笑う。今日の自分は本当に使い物にならないのだなと、彼女にまで嘘をつけないこの身を哀れんだ。
俺は空いた左手で彼女の頭をぽんぽんと撫でつけた。彼女の瞳が、次にすべきこと、彼女が俺にさせたいことを強烈に示していた。
「……行こうか。もたもたしていると、暗くなる」
「はい」
彼女の手を引いて、俺はレンガの道を進んだ。硬く乾いた足音がふたつ、耳の奥を叩いて返っていく。規則的な音の往復、その数を数えながら、ただ前を向いて歩くことだけに集中する。途中、後ろを歩く彼女が夕焼けの美しさに言及したが、俺は敢えて上を見ることはしなかった。
そのまま黙々と進み続けて、とうとう姉妹の住むアパートまであと数分の路地に至ったとき。夕焼けの話をして以来押し黙っていたメルティーナがふいに立ち止まり、小さな声で吐き捨てた。
「あたしはあたし。アリーシャは、アリーシャでしかないんですよね」
「そうだな」
何故かそのときの俺には、どうしても彼女の方を振り返ることができなかった。




