魔法使いの弟子
声が聞こえる。甲高くてうるさい、猫の声だ。何故か聞くたびいちいちカンに障る、そんな猫の声だ。
目蓋越しに光を感じる。きっとここは、どこか明るい場所なんだろう。
懐かしい香りがする。甘い、花のような香り。
身体を、やわらかいものが包んでいる。
ここは、どこだっけ?
「気が付きましたか」
――ああ、残念ながら。
「顔、死んでますよ」
――そりゃ、死んだからな。
「サトリ」
「うるせえ、ミア」
うっすらと目を開けると、そこはいつも寝起きしている清流亭の一室だった。声の正体はミア、光の正体は窓からの陽光、身体に触れていたやわらかいものは、まさにベッドに行儀よく整えられたリネンであり、香りは洗剤のそれ。なんとも、おおむね、だいたいはいつもの光景である。イレギュラーと言えば、横になっている俺をつまらなそうな面持ちで見つめるへっぽこ魔法使いの存在だろう。
「どうしたポンコツ、また寝不足か?」
「あなたこそ、もうひと眠りしますか?」
そう言って、ミアは俺の顔に余っていた枕を思い切り押し付けた。なるほど、宿屋のベッドに必要以上に枕が置かれている理由、それは憎たらしい相手にこういうことをするためだったのか――俺は苦しさの中で、長年の疑問に対する答えをひとつ、見つけたような気がした。
「漫才してる場合じゃありません!」
と、思索にふけりながら再びまどろみ始めた俺の顔面を、ミアが件の枕で殴って起こした。決して今に始まったことではないが、この魔法使い、とんでもなくむちゃくちゃである。
「あなた、わざと落とされましたよね?」
ミアは、俺の上に覆いかぶさるような格好になりながら、シャツの襟元を強く掴んできた。互いの額がぶつからんばかりの距離まで、見知った顔が迫ってくる。怒りからだろうか、ミアの目は真っ赤だ。彼女は日頃からきつい目つきをさらに強めて、ぎりりと俺を睨みつける。ああ、せっかく整った顔をしているのに、どうしてこいつはこんなひどい顔をするのだろう。しなければいいのに。それも、俺のせいなのだろうか? ミアの顔がどう変形しようが俺にはどうにもしてやれないが、それでもただひとつはっきりしていることがある。
結局、いつまで経っても彼女に嘘はつけそうにない、ということだ。
「うん」
正直に、できるだけ短く答えてみた。ミアはそれより少しだけ長いため息をついて、震えるほど強く掴んでいた襟を、あっさりと解放した。
「どうしてですか?」
「そうさせてやりたかったんだ。アリーシャはずっと――ずっとリーナに苦しめられていたんだから」
ミアはもう、俺のことを睨まなかった。代わりに俺の頬を、音が出そうなくらいに強くつねって――そのときの彼女は、こころなしかとても悲しそうだった。
「あなたは本当に馬鹿ですね」
「いいだろ。彼女の人生で一番の賭けだったんだ。腹くらいくれてやるさ」
アリーシャは、俺をナイフで刺したうえにアパートの窓から突き落とした。結果として相手が死んでもおかしくないような行為を、彼女は自身の音よりも鮮やかな意思を以て実行したのだ。
彼女がそれを決意した理由は、何となく解っている。彼女は、リーナ・アールスの商品価値の失墜を狙ったのだろう。そのために、自分の本当の名前を汚すことすらいとわなかったということだ。そう、アリーシャ・フラウは、自分のために俺を殺した。殺そうとしたのだ。
「でもあなた、死ななかったじゃないですか。あなたの行為は結果的に、必要以上に彼女を苦しめることになりませんか?」
「――それが、彼女やリーナにとって必要なことだろう?」
再度、ミアはため息をつく。
「相変わらず、あなたの言うことすること、いちいち意味が解りません」
「いいんだ、解らせる気なんかないんだから」
最低ですねとささやいて、ミアは俺のそばを離れた。俺を罵る彼女の声はうって変わってやさしく、決して耳に障らなかった。
今度こそ俺はベッドから身体を起こして、改めて自分の腹に触れてみた。このとき初めて気が付いたのだが、いつの間にか傷が付いているであろう箇所には白い包帯がしっかりと巻き付けられていた。痛みの有無は、実際のところよく判らなかった――刺されたところがまだ疼くような気もするし、それさえ気のせいであるようにも思えるし。ともかく、自分の身体が動く、ということだけ確認できていればそれでいい。汚れた服は替えればいいのだから。
「ミア、今は何時だ?」
俺はミアに尋ねる。日の具合から午後であることくらいは判ったし、まず時計を見ればいいだけなのだが、まあ、まだ寝ぼけているかもしれないし、身体と頭の動作確認も兼ねて、だ。
「四時ですね」
「……早くねぇ?」
やはり、寝ぼけていたのか……。実際の時刻は、俺が思っていたより幾分か早かった。そして同時に、俺は、自分の身体に宿ったあの人の力に戦慄した。仮にも刺されて突き落とされたこの身体を、すぐに動ける状態にできるのだから――味方でなければ、あの人には絶対に関わりたくない。いつも、いつでも、そう思う。
俺の恐れを知ってか知らずか、ミアは胸を張って誇らしげに鼻を鳴らした。
「お師匠様の力をなめないでください」
「どうしてお前が威張るんだ?」
すると彼女は、にっこりと微笑んで――。
「私は、魔法使いの弟子ですから」




