「グッドラック」
「私ね、ずっと思ってた」
窓辺のアリーシャは、再度全身をこちらに向けて、ゆっくりと語り始める。
「メルのこと、うらやましいなって。私もメルになりたかったなって」
彼女の顔には、先程まで渦巻いていたような悲壮感はすでにない。いつの間にか、今日のこの日の空のように澄み切った、晴れやかな表情に様変わりしていた。俺が彼女と出会って以来ずっと気がかりに思っていた、彼女のどこか力んだ表情――それがすっかりとほどけて、そこに佇んでいるのは、ただのひとりの少女だった。
アリーシャは、力の抜けた笑顔で続きを演じる。
「妹は『本物』だし――何より、彼女の仕事は、残るから」
残る。残らない。俺には一瞬、その意味が掴めなかった。アリーシャの独り舞台は、第二幕もまた難解であった。
「私の仕事は音楽。音楽は、その場にいる人たちを楽しませる、目に見えないもの。そう、私は楽器弾きのリーナ」
彼女は窓枠に軽く腰掛け、楽器を構える真似をする。彼女、『楽器弾きのリーナ』の華奢な指が空を捉え、そこにはないはずの楽器を奏で始める。その構えは、思わず目が覚めるほどに美しいが、音は鳴らない。アリーシャはしばらく演奏のポーズをとったのち、構えをほどき、右の手をひらひらと振った。続けて左の手を同じよう振ろうとするが、彼女は間もなく動きを止めた。
「今日は痛いわ」
晴れているのにと、アリーシャは笑う。
「こんなふうに、私はそのうち自分の音楽さえも失って、何もできなくなるでしょう。そうしたらリーナはただの絵描きになるの。たとえそんなことがあっても、もちろん妹の才能は揺るがない。当然よね? メルはメルだもの。そして私が音楽を喪ったとしても、リーナの絵画は変わらずに発表され続けるでしょう。リーナに期待してくれる人たちは、それで喜んでくれる。私が楽器を携えて表に出なくなったとしても、言い訳は何とでも立つわ。絵をやめるのに比べたらどうということはないの。つまり、私がいてもいなくても、リーナ・アールスとしてはほとんど問題ないってこと」
アリーシャの理論は破綻している、もはや理論の体さえもなしていないと、俺はそう感じた。楽器も絵画もこなせる若い芸術家として売り込んでいるリーナ・アールス。『彼女』が音楽という片翼を喪えば、それがリーナという幻影の商品価値にとってどれくらいのダメージになりうるか――当のアリーシャには、まったくと言っていいほどそれが見えていない。彼女は自分を卑下するあまり、今まで自分が守り続けていたもの、リーナという虚構を見失っているのではないか?
アリーシャが自分を殺して、思い詰めて、それでもリーナを続けてきた理由は何だったんだ?
「アリーシャ、それは――」
それは違う、おかしいんじゃないか? そう続くはずだった俺の言葉を遮るように、彼女の声が空を切る。
「でもね、それってあまりに悔しいと思わない? だって私、メルに負けないくらいがんばったのよ。メルと同じくらい、たくさんの人の期待に応え続けてきたのよ」
彼女は笑顔のまま、窓枠に預けていた身体を揺り起こし、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。そして目の前まで来ると、彼女は俺の手を取って、再び窓辺へ戻っていく。そう、他人の俺と一緒に。
「見て、メルの作る色みたいな空。絵の具をぶちまけたような空」
アリーシャは、痛むはずの左腕をしなやかに伸ばして空を指し示した。彼女の指先につられるようにして視線を動かせば、そこには確かに、どこか偽物じみた空がどこまでも広がっていた。空に向けて解き放たれた窓からは、冷たい風がわずかに吹き込んできて頬を撫でる。むずがゆい。
さて、俺の左手はというと、アリーシャに奪われたままである。
「君は、俺に何を求めている?」
空から視線を移し、俺はアリーシャを注視した。彼女は眉間にしわを寄せ、困ったように笑っている。そう、先程から彼女は、一貫して笑っているのだ。
「それに答えなければだめ?」
彼女の問いに、俺は答えなかった。
俺から答えが得られないと判ると彼女はにわかにうつむき、そっと目を伏せた。そしてそのまますっかり押し黙り、俺たちは無言になった。
はたして、どれくらいの間そうしていただろう。ふいにアリーシャが唇を動かした。
「サトリさん」
俺の名前を呼ぶその声は、俺が知るうちのどのアリーシャよりもやさしかった。そして何故か、彼女のその声を耳にした瞬間に、不思議と彼女の思っていることを感じ取ることができた。
「私、ひとつだけ知ってるの。リーナを確実に殺してしまう方法。絶対に、表に出られなくできる方法」
彼女の笑顔の意味は判っている。彼女の立てている脚本は解っている。すなわち、俺の覚悟はできているということになる。実のところは、ほんのちょっとだけ悔しいけれど。
「ああ、俺も判ったよ。ほとんど確実というか、すごくいい方法だ」
「あなたのそういう察しがよすぎるところ、私は大嫌いよ」
俺たちは最後、たったこれだけの会話を交わして、握り合っていた手を静かにほどいた。アリーシャが一歩下がる。彼女の空いた右手に鋭く光るものを認めたため、俺は先刻の彼女にならって窓枠に身体を預け、そのまま目を閉じることにした。そこから先は、本当に一瞬の出来事だった。
暗転。
わずかな暗闇のち、鈍い音と雷に打たれたような痛み。こらえきれず反射的に目を開くと、右の腹に突き立てられたナイフと、そこからにじんでいる赤色と、再び涙を流すアリーシャが視界に飛び込んできた。
「アリーシャ……」
俺たちは再び見詰め合った。こうしているとまるで、時が止まったようにさえ感じられる。しばしの無音の後、時を進めたのは再びアリーシャ。この場の支配者は、どうあっても彼女である。
「これが、私のリーナへの復讐。妹への復讐なの」
彼女はもう笑わない。握りしめていたナイフの柄を離し、勇気ある共犯者は喉を詰まらせながらも言い切った。
「――さよなら、サトリさん。これまで妹を手伝ってくれて、ありがとう」
暗転。
「――グッドラック、おやすみなさい」
俺の身体は、窓の外へと放り出された。




