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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
33/52

続・ダブルキャスト

 俺は意気地なしだ。

「リーナ・アールスを、殺しに行く……?」

 俺には彼女、アリーシャの、この場のすべてに似つかわしくない言葉を馬鹿みたいに反芻することしかできなかった。だってあまりにも場違いだ。彼女自身に、この部屋に、この街に、この時代に、そしてリーナ・アールスに。あまりにもそぐわない。彼女の舌が発するざらつきは、そのまま耳にするにはあまりにも心地が悪かった。

 同時に俺は恐怖した。彼女の言葉から強烈に連想されたイメージは、当然ながら死に色のそれだった。彼女の妹の絵より赤い赤色と、彼女の手繰る弦よりも張りつめた光景。それが、脳裏に焼き付いて離れなくなった。妄想じゃない。思い込みじゃない。自分の思考を支配する悪夢は――確かに、絶対に、いつかのどこかで知ってしまった、人が人を殺す悲しい夢だった。

「だっ――ダメだ!」

 彼女の両肩を乱暴に掴んで、制止する。静止する。正視する。彼女は慌てふためく俺をまっすぐに見つめてきた。妹によく似てきれいな、しかしわずかに充血した瞳で、一点の曇りなくこちらを見つめ返してきた。しかしその輝きはほんの一瞬で尽き果てていく。こんなにもあっけなく、星が落ちては死んでいく。星を喪ったアリーシャは、一転して薄雲をまとったようにぼやけた光を俺に投げてくる。鋭さはない。しかしじわじわと確実に、淀んだ瞳で俺を射殺しにかかってくるのだ。冷たくじとりと、薄曇りの空がみるみる虚無に染まっていく。

 確信した。彼女は星を殺したのだ。

 次に彼女の小さな口から吐き捨てられたのは、俺に対する低く唸るような敵意だった。

「何も知らないのに口を出さないで」

 部外者めと、はっきりとそう言われた気がした。今まで彼女が決して表に出さなかったものを、容赦なくぶつけられた気がした。彼女の心ある言葉が、相対する俺を削って抉る。痛々しい。血は出ていないのに、撃たれたわけでも刺されたわけでもないのに、忘れかけの古い傷よりずっと痛かった。

 こだまする。

 出さないでと、短いフレーズが反響して残響する。

 何も知らないのにと、ぶつ切りのセンテンスが乱反射して突き刺さる。

 アリーシャの刺激的な独り舞台はなお続いた。彼女の言葉はもうこれ以上聞くに堪えなかったのだが、主役の彼女は舞台を下りた者のことなどお構いなしだ。だが、きっとそれでいい。アリーシャ・フラウはそれでいいのだ。

「あなたは、黙っていて。あなたに私のことが解るの? たったひと月前に出会ったあなたに? ふざけないで。私の名前はそんなに安くない。私の歴史はそんなに軽くない。あなたは何も知らないの。私こそ、リーナに殺され続けているのに。そんなことも知らないで。おかしいでしょ、私は彼女のために彼女になったのに。私は私を捨ててわたしになったのに、彼女はそんなこと知らないんだわ。粗末なあなた以上に、何も知らないんだわ。滑稽ね、ほんとおかしい。笑えばいいじゃない。笑えば? 笑いなさいよ。お前は哀れだって、あの人みたいに言えばいいじゃないの」

 向かう相手のない言葉は俺の頬をかすめて空に刺さる。息が切れるまで鋭い言葉を撃ち出したアリーシャは、白い顔をわずかに上気させて俺を睨んでいる。俺を睨んでいる? 否、俺の向こうにいる誰かを睨んでいる。

「――離して」

 彼女は左の肩を揺すって、俺の手を引きはがそうとする。彼女の軽蔑の色を浮かべたうつろな眼の訴えひとつで、俺のばかみたいに力んでいた十本の指がひとりでに弛緩した。ああ、これはひとつの皮肉かもしれない。彼女の冷めきった視線は『演奏家のリーナ』、アリーシャ・フラウの音色にも勝る力を持っている。彼女はまだ、自らに秘めた感情の波を音に昇華しきれていないのだ。図らずも、彼女は今の実力を、至らなさを証明してしまった。

 それを悟ってか悟らずか、アリーシャは視線を落として吐き捨てた。落ちてきたのは、ふたたびのあの言葉だ。

「私は――彼女のために彼女になったのに」

 言葉の意味は、俺には解らなかった。


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