名前を呼ばないで
「どうして判ったのかしら」
そこにいた彼女、アリーシャはいつものぶっきらぼうな口調に戻って皮肉っぽく笑う。
「メルティーナは、俺の名前を呼ばない」
「――そう」
俺の返答を聞いて、アリーシャは納得したと言わんばかりに深くうなずくのだった。
「ごめんなさいね、試すようなことをして。でも、びっくりだわ。見破られたのはほとんど初めて」
彼女は満足そうだった。それからしばらく雑多な会話を交わしていたが、やがてはたと思い出したように、彼女は話題を軌道修正する。
「メルなら、絵の搬出のために出かけているわ。戻りは多分遅くなるけれど」
「ああ、やっぱり」
アリーシャの姿を認めた瞬間から浮かんでいたとおりの答えをもらった。メルティーナの手伝いのために訪れるには、すでに遅かったようだが、俺は心のどこかで安堵していた。
「空振りよ、残念だったわね」
「いや、そんなことはないさ」
俺はメルティーナが彼女を否定した日から、ずっと求めていたのだから。それが今、思いがけない最高の形で実現しようとしている。それをどうして残念がることがあろうか。
俺は、彼女の瞳を真正面から捉えて感謝を告げた。
「会いたかったよ、リーナ・アールス」
名前を呼ばれた彼女の顔が、驚きの色に満ちていく。その色に埋め尽くされた瞬間、彼女の顔がつとこわばった。しかしそれはまばたき一瞬程度のことで、次の刹那にはもう、彼女を彩る色は怒りのそれに化けていた。
彼女は、低くこもった声で返す。同時に、俺を恨めしく強く睨む。
「……私は、アリーシャよ。リーナじゃない。リーナであってはならない偽物なのよ」
また、想定どおりの反応だ。自分の中にぼんやりと描いていた地図と現実の彼女、その符合に思わず頬がゆるみそうになる。とはいえ、ここで迂闊な反応をすればこちらが負け、クレバーなアリーシャからはきっと一切のヒントを引き出せなくなることだろう。気持ちを引き締め、俺は精一杯胸を張る。ただし、彼女の瞳を再びまっすぐ見つめるには、わずかに勇気が必要だった。
俺は意気地なしだ。
「いいや、君はリーナだ。君たち姉妹はリーナだよ。君だけでも、メルティーナだけでもリーナではあり得ない。そういう在り方を選んだのは君たち自身じゃないのか?」
俺はアリーシャの両肩を掴み、一気にまくしたてた。これは賭けであり、とても卑怯な問いだった。彼女がリーナ・アールスにどれだけの期待をし、彼女自身の誇りとし、すべてを賭して愛しているのか。彼女の人生を成すその名前の意味を知っていれば、決して彼女がこの問いを否定できないことは最初から知れていた。そこまで理解していても、俺は彼女に問わなければいけなかった。魔術師から背負うことを義務付けられた荷物のために、藍色との約束のために、どんなことでもしなければいけなかった。一月の課題は、『誰かの人生を切り開くこと』、もう何度も失敗したそれを叶えることだけが、俺自身の存在意義であり価値のすべてだった。顔も知らない大勢の人たちに期待されている彼女たちとは違う。何かを生み出すことを期待されている彼女たちとは違う。一月の俺は、何かを傷つけ壊して終わらせることでしか、存在を許されない。
ああ、気分はまるで墓荒らしだ。だが、それでいい。きれいな宝箱だろうが、おどろおどろしい棺桶だろうが、何だって暴いてねじってこじ開けてやる。
案の定、アリーシャ・フラウは反論しなかった。できなかった。申し訳ない。本当に申し訳ない。悲しげな目をする彼女に喉元で謝罪を述べ続けるのと同時に、目の前の人物の明確な弱点を突くことができた事実に心臓を高鳴らせている自分がいること――この事実を俺は嫌悪した。最低だとさえ思った。
なお、続ける。もう開き直りに近い。
「……だから君から、リーナについて聞かせてほしい」
アリーシャはぽろぽろと涙をこぼしていた。そんな彼女を見つめ続けていたせいだろうか――こちらまで、涙声になってしまう。この状態でしゃべるのはつらい。喉が焼けてしまいそうだ。だが、もう、押し出すしかない。卑怯な問答を完遂するしかない。
一瞬のためらい。
とどめにひと息だけ呑み込んで、問うた。
「リーナ・アールスとは、何だ?」
アトリエが凍った。あれほど充ち満ちていた画材の悪臭も、それを蹴散らす窓からのそよ風も、次の瞬間には判らなくなっていた。また、彼女の表情もにじんでしまって俺には見えなかった。とうとう目がダメになってしまったのだろうか? その理由が、いつの間にかあふれていた涙のせいだと気が付くのに、幾分かの時間が必要だった。
互いに涙を流す小さな部屋の中。均衡を破ったのは、彼女自身としてのアリーシャが発する、決意にも等しい言葉だった。
「私の、大事な宝物」
消え入りそうな声を、耳で必死に拾う。
「――私の、殺すべき相手」
「……?」
彼女の回答は、にわかには信じがたいものだった。
「私はこれから、リーナ・アールスを殺しに行く」
そう言い切った彼女から、もう悲しみの色は消えていた。




