不在、時告げる黒
会わなければいけない気がした。
*
やっとのことで清流亭に戻ると、ラウンジのところでハルさんと行き会った。
「やあ、サトリくん。……どうした、顔色が悪いみたいだが」
「どうも、ハルさん。何でもありませんよ」
メガネを持ち上げ、心配そうに目を細めるハルさんを、軽くあしらう。同時に彼の親切心を無下にすることを心底申し訳なく思う。
それでは、と軽く会釈し、俺はハルさんの顔をろくに見ないままラウンジから階段に向かう。木の手すりを持ち、右足を一段目にかけたそのとき、彼は珍しく俺を呼び止めた。
「サトリくん」
「……はい」
足元の木目をぼんやりと眺めたまま、俺はハルさんに焦点の定まらない返事を返すことしかできなかった。よほど気を遣ってくれたのだろうか、彼は俺の無礼を咎めるでもなく、穏やかに、ゆっくりと言葉を投げかけてくれた。
「俺はここを発つよ。今まで世話になった」
「――え?」
「明後日の朝さ。決めたんだ」
「そう、なんですか」
「ああ、唐突で悪いがね。やっと決心がついた」
「決心?」
「うん、許してもらえるか判らないが、待つのは止めた、逃げるのは止めた。妻に謝りに帰ろうと思う」
「――はは、やっとですか。遅いですよ」
「悪かったな」
「決めたと言いつつ、どうせ身の回りの誰かから、連絡でも受けたんでしょ」
「……」
「図星かよ」
「ま、まあ、いつまでも仕事を休んでいるわけにもいかないしね。ここらでそろそろ小旅行も終わりにしなければと……」
「はぐらかした。悪い大人の悪い癖ですよ」
「君の指摘は相変わらず耳に痛い。まあ、心に留めておくとするよ」
「そうしてください」
その言葉を言い終わりきらないうちに、俺は階段を再び昇りだした。視線は木目に落としたままで。結局、ハルさんの顔を見ることはできなかった。それでも何となく察することはできるのだ。きっと彼は、さぞ穏やかな顔をしていたのだろう、と。なぜなら彼は、しあわせな人なのだから。
「サトリくん」
別れ際、ハルさんが俺を呼び止めた。
「いろいろあったが、君には世話になったね。久々に若い友人ができて、実に楽しかった」
別れ際。この人とは、本当の意味で明後日の朝でお別れなのだろう。明後日、二月一日。それが、俺とこの人とを結ぶ関係の命日だ。そこを過ぎれば、もう二度と会うこともない。もう二度と、彼が旅人の俺を思い出すこともないだろう。
それを思うと、つらくなる。つらくなるばかりで、俺は彼の礼に応じることはできなかった。
背を向けてうつむいたままの失礼な俺に、ハルさんはひとこと、こう告げた。
「ありがとう」
その言葉を残して、ハルさんは宿の外へと出かけて行った。
ああ、この人には本当にしあわせになってほしい。ハルさん、あなたはどうか、奥さんを大切にしてあげてください。
いよいよ明日で一月が終わる。今度こそ逃げずに、彼女――リーナ・アールスに会わなければいけない気がした。




