朝、緑の公園で
サトリ…旅の少年
メルティーナ・フラウ…絵描きの少女
リチャード・ハル…旅行中の男性
リーナ・アールス…新進気鋭の若手芸術家
ミア…藍色の髪の少女
彼は、あの素晴らしい少女を知っているかと問うてきた。俺は、知らないと答えた。
*
俺はテリシラ帝国と同盟を結ぶ東の国、アンゼのある都市で年を越すことになった。
この国では、新年を大々的に祝う文化がないということは以前から知っていた。しかし、いざ実際になにもない新年というものを見てみると、それは何とももの寂しいものである。それがたとえ自分にとって、この国で何度目の新年であってもだ。
俺は旅の途中である。しかし、特にどこに行こうというわけではない。あっちにふらふら、こっちにふらふら。ある人の言い付けで、もう随分と永い間旅をしている。覚えている限りでも、俺はかなりの距離を歩き、かなり多くの場所を見、そしてそれはそれは多様な人たちと知り合ってきた。頭の中は旅の思い出で溢れていて、もしかしたら、もう自分の名前も忘れてしまっているのかもしれない。俺は今、サトリと呼ばれているし、自分でもそんな名前だと認識している。ただ、その名前にどんな願いが込められていたのかは忘れてしまった。俺の故郷では、名前とそれに込められる願いはとても大切にされているはずなのだが。しかし今の俺には、その忘却が旅の永さのせいなのか、それともそうでないのかも判らない。
そんなことをぼんやりと思いながら、俺は人通りが多くない、冬の朝の寒々とした目抜き通りを歩いていた。初めて訪れるこの街にはちょうど前日から滞在しており、俺は早起きのついでに散歩をしていたところだった。細かい凹凸のある赤っぽい石畳の敷かれた朝の通りは、ひんやりとした空気に満ち満ちている。青空のどこかにいるらしい鳥の甲高い鳴き声も、この冷たい景色を彩る気の効いたスパイスのようなものに感じられた。道は美しく整備され、脇には黄色いレンガ造りの閑静な住宅街と、葉の落ちた街路樹が立ち並んでいる。こぎれいな通りをのんびりと歩くうち、通りの向こう側にこんもりと茂る緑色のかたまりが俺の視界に飛び込んできた。どうやら、小さな常緑樹の森を抱える公園があるようだ。
特に行く先も目的も持たない俺は、その公園に立ち寄ってみることにした。時刻は午前六時半、宿の朝食の時間までにはまだ十分にある――灰色の上着の内ポケットに収めた懐中時計で時刻を確認し、俺は公園の形ばかりの門構えをくぐった。
その公園は、森で隠された外観から想像される姿をある意味で裏切るものだった。まず、通りから続く石畳は、公園に入ってまもなく、公園の中心に向かってのびる急な坂の一部に姿を変えていた。坂は、その決して広くない舗装部のほかは土がむき出しであり、両脇には外から見えた森を成す木々が空を見上げていた。入り口から見る限り、公園には坂と木々以外には何もなく、街中の公園だというのに遊具の類は一切見当たらない。はて、門構えには確かに公園と書かれていたのだが――。とにかく、俺は少しだけ坂を上ってみることにした。
そして、そこには本当に、坂と森以外には何もなかった。
それを知って、やってくるのはただひたすらに戸惑いだ。もしかしたら、少し奥のところで頂上を迎えているこの坂の向こうに、俺の知っている公園らしさを作るものが隠されているのだろうか。俺は何故かその場に釘づけになったまま、半ば焦りながらあれこれと思考を巡らせていた。坂の向こうを見に行こうか?いや、しかし、あちら側にも何もなかったら――現実から逃避するかの如く、坂から目を逸らしながらもしばらくそこに立ちつくしていると、突如として頂上の方から、耳をつんざくような音ともに、この森にも似た緑色の塊が現れたのである。
「どどど、どいてくださああああああい!」
「お、おお!」
耳障りな音に振り向いた俺に向かって、塊は高い声を張り上げた。しかし、傾斜が急な坂を下ってくるそれに対して、現状を把握できていない人間が対処できるわけがなく――ぶつかる直前になって、俺はそれが黄色い自転車にまたがった緑色の服の少女であることにようやく気が付いたのだった。
かくして俺は、遠い東の国の奇妙な公園で、朝早くから謎の自転車娘と見事な衝突事故を起こしたのであった。