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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
28/52

しあわせのためのリーナのためのしあわせ①

 昔話。一般的にむかしむかしで始まる民話の一種。子供向けのニュアンスが強く、教訓めいた話も多い。また、語り手その人の経験談など、個人的なエピソードを指すこともある。

 彼女が言いたいのは、一体どれ?

 メルティーナは意味ありげに深呼吸をし、目を伏せたまま話し出した。先程の笑顔の花は嘘のように隠され、彼女は非常に静かだった。

「ここで思い出に浸るのが、いつもの儀式なんですよね」

 ここからわずかに伺える範囲で判断するに、彼女の表情はすっかり緩んでいるようだ。おそらく制作の緊張感から一時的に解き放たれているのだろう。彼女はいつもの弾けんばかりの笑顔こそないが、心穏やかといった様子だ。そのせいだろうか、口から紡がれる言葉もやや温度が低く、心地よく流れ滑っていく。

「昔話、思い出、懐古――みんなみんな、あたしの嫌いな言葉です」

 彼女はそこでやっと顔を上げ、力なく笑った。かすれた筆遣いは、ときに好んで彼女が絵に取り入れていた技法だった。絵は描き手を表すとでも言うべきか――その筆で塗りたくった絵の具の質感に、今の彼女はよく似ている。

 かすれて、ざらついて、どこか悲しい。見ているだけで胸のあたりをきゅっと掴まれたような心地がする。驚くべきことに、その笑顔は彼女の姉によく似ていた。非対称な双子は、悲しみの色においてはまったく対等の対称、運命の相似形だったのだ。俺はその事実に気付いたことでいたく感じ入るものがあったし、同時に気付かなければよかったとさえも思う。悲しいときでしか、同じに見えない双子だなんて。まして彼女らは、ひとりになりきるなんて趣味の悪い遊びを、好き好んでやっているというのに。

 もしかしたら彼女は、普段無理をして笑っているのかもしれない。木枯らしの思考が、ふとそんな路地に寄り道した。――だから何だというのだろう。そんなこと、所詮は彼女自身が選んだ道だ。同情なんかしない。するものか。

 メルティーナの視線は、どこかぼんやりとしたまま遠くを見ている。隣に座る俺を気にかけているようで、本当はまったく別のどこかに出かけている。ここに連れてこられた俺の役割はあくまで、彼女が別のどこかを旅するための依り代にすぎなかったらしい。メルティーナが現実に存在したまま、どこか遠くへ行くための。今までの形ばかりの『手伝い』の意味も、もしかしたら同じだったのかもしれない。しかし、そんなことはさして重要ではなく、ささやかにでも悲しむべきことではなかった。それもまた、彼女の選んだ道だから。

彼女は再度、遠くを見たまま毒を吐く。

「後ろを向いて、取り戻せないものを懐かしんで、そんなことの何がいいんですか? 何が楽しいんですか?」

 ここ月末に至って、彼女の嫌いなものを初めて知った気がした。彼女は小さな声で、しきりに嫌い嫌いとこぼしていた。そして彼女の嫌悪するそれは、彼女自身が俺に求めていたもの、見ず知らずの他人だった俺たちを顔見知り程度の他人に至らしめていた糸にほかならない。自ら欲していたものの大部分を、彼女は自ら明確に否定しているのだ。月末とはひとつの区切り、ことの終わり、懐古の魔法の解けるとき。どこかのいかがわしい学問の考え方に、そんなものがあった気がする。

 とはいえいきなり毒を噴きかけられて気持ちのいい思いをしているはずもない。こちらも毒を含んだ言葉を吐き出さずにはいられなかった。

「――俺の『懐古』は、不快だったか? 絵描きさん」

 メルティーナはにこりと笑む。こちらの嫌味は通じていないらしい。

「明るく楽しい色ばかりじゃ、絵なんか描けないのよ?」

 彼女は腕を後ろに回して、大きく伸びをする。こきり、と骨の鳴る音がした。


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