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逆行懐古録Ⅰ しあわせなリーナ  作者: 黒川杞閖
一月 「しあわせなリーナ」
26/52

孤独の敗戦

 ああ、彼女はこれを望んでいたのだろう。きっと、ずっとずっと以前から。

「――さん、お兄さん、聞いてますか?」

 彼女との薄い思い出、そしてその地点から連なる思考に浸かりきっていた俺を、メルティーナの明るい声が揺り起こした。

「ああ、悪い……で、なんだって」

 本当は全部聞こえていたけれど。とぼけた返事をしながらメルティーナの方に向き直る。それと同時に、目の前の彼女と脳裏に浮かんだ彼女との、あまりの『似ていなさ』にどきりとした。初めこそそっくりだと思っていた同じ顔の姉妹は今や、まったく違う造型を持ったふたつの個体にしか見えなくなっていたのだ。当たり前なのかもしれないが、どうして急にそんなことを思うようになってしまったのだろう。何故なのかは、やはり判らない。

 目の前の彼女、メルティーナは絵の具の黄色のような笑顔を俺に見せている。そして黄色よりも黄色い声で、箱の中の花よりも鮮やかな赤で、はじまりの言葉を口にするのだ。

「おかげさまでこの絵はもうすぐ完成します。今まで、本当にありがとうございました。完成しきってしまう前に、どうしても行っておきたい場所があって」

 メルティーナは大げさな身振りで、腕ごと使って箱の中の花を示した。最初に見たときの状態でさえ美しかった、この大小色とりどりの花々は、今や吸いきれないほどの生命の水に濡れていた。俺と彼女とで話した広い世界の話、狭い愛の話、よく知る猫の話。そんな些細なものたちが、色彩のかたまりにすぎなかった花を本物にした。そのことに俺は心底驚いていたし、それを実現するメルティーナの筆に感嘆しきりだった。今や花は生々しいにおいを放っている。それは確かにそこにある。生きている。その実感とともに、どこからかあの気配が、はじまりが確かな色彩をもって近づいてくる。

 彼女はぽつぽつと語り続ける。

「儀式みたいなものです。あの公園――初めてお兄さんと出会った公園に、行きたいんです」

 どこか照れたように、まるで遠慮するように。しかし彼女の目は、確かな強さを持って俺を見つめていた。そのまなざしを受けて、ああ、この間のアリーシャそっくりだと思い知らされる。彼女は微笑んでいる。彼女は迫っている。俺に。俺に、決断を。

 断る理由はなかった。たかが散歩だ。しかし、しかしどうして、あの魔法使いの言葉が、悲しそうな顔が焼き付いて離れない。あの傷だらけのヴァイオリンの音が頭の中に反響して離れない。今の俺が対峙している相手はメルティーナだというのに。ミアでもなければ、ましてアリーシャではあり得ないのに。

 ――いけない。『彼女』に情が移ってしまっている。これは危険だった。対応を間違えれば『彼女』の人生を狂わせかねない。それは事情がどうであれ、掛け値なしにいけないことだ。

 相変わらず弱いな、お前は。

 唇をきゅっと噛みしめ、俺は俺の甘さにできるだけ冷たい警鐘を鳴らした。

 今を生きている人間に近づきすぎるな。

 未来を見つめた人間を妨げるな。

 違う流れを生きる人間たちを愛することがあってはならない。

 ――先生は、西の魔術師は、そんなことはただのひとことも言わなかった。だからこそ、これは俺が背負った運命であり、試練であり、先生からの課題だった。すべては、俺が望んだことだから。

 だから、しんどいのは俺ひとりでいい。せめて、あの藍色だけがそれを解ってくれればいい。多くは望まない。自分のあるべき立場を再確認した俺がすることは、たったのひとつだ。

「ああ……行こうか」

 最適解を探そう。美しくない最適解を。

 今を歩けない人間以外の、やるべき仕事をこなすんだ。もちろん目の前の彼女は、そんなこと一ミリだって知らなくていい。

「はい!」

 俺の意図したとおり、メルティーナはぱっと顔を輝かせた。こうして見れば本当に、ただの年相応の少女でしかない。藍色め、あの青色の魔法使いめ。そして顔を見せない大魔術師め。こんな彼女を、どんな運命が待ち受けているというんだ? ふたりがかりでこれだけ俺を脅したからには、相当なことが待っているんだろう? ああ、憎い。憎い魔法使いめ。終わりに向かって歩くリーナ・アールスを止めることすら、俺には許されないなんて。

 にわかに渦巻く理不尽な怨嗟。それを奥歯で必死にかみ殺す。幸いにもメルティーナは、エプロンを外して身支度に夢中だった。よかった、この娘は俺のことなんかまったく見ちゃいない。俺は彼女の視界の外側で安堵し、箱の中の花とともに待ち人の背中をいとおしく思った。

 支度を整えた彼女、メルティーナは上機嫌で俺を連れ出した。時刻は午後三時過ぎ、天気はまごうことなき快晴。ほんのわずか、いつもより黄金がかっていたあの日の空の色を、俺はいつまでも忘れない。否、忘れられそうにないのだ。

 彼女は例のニット帽を目深に被ると、靴ひもをしっかりと結んでアトリエを飛び出した。持ち物は小さなカバンひとつのみ。帽子から覗く目はきらりと輝いている。よほど楽しみなことがあるのか、彼女の身体は俺の袖をぐいぐいと引っ張ってまで前進し、ただひたすらに前を目指そうとする。

「早く!」

「お、おい……」

 いつになく強引で活動的な彼女の様子に、俺はいくらか戸惑った。今日の彼女は、どこか翳のある、日頃部屋に引きこもって根を詰めている画伯とはまるで別人のようだった。そう、何か違う。そんなわずかな違和感が、俺を余計に不安にさせた。

 アパートを出て、赤レンガ通りを抜ける。その間、俺たちは終始無言だった。異様なまでに無言だった。メルティーナは黙々と前に向かって歩き、俺はその数歩後ろを黙ってついていくだけの時間。見ようによっては寂しい光景だったかもしれない。日頃、あれだけ話しておきながら。終わりを見つめた途端、俺は彼女に何も言えなくなるのだ。まごまごしているうちに、あっという間にふたりの終着点が見えてくる。あの坂が見えてくる。

 正体不明のおわりまで、あと少し。

 一月も終わりかけたその日、俺とメルティーナは、月の初めに出会ったはじまりの丘のてっぺんに立っていた。そこには相変わらずのベンチと、彼女のつけたであろう絵の具の痕跡と、俺たちだけがある。いま、乾いた風が無言の俺たちをすり抜け――癒着していたふたりの時間をにわかに引き裂いた。

 すべては俺の弱さが招いたこと。今も昔も変わらない。これから起こる悲劇も喜劇も、すべて自分に返ってくる。

 さあ、愛しの青い魔法使いが示した『一週間後のその日』、おわりのはじまりが音を立ててやってきた。


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