カーボンコピーの憂鬱
画伯が筆を置いてから、俺が返事の言葉を紡ぐまでのひと刹那。何故だか俺は、彼女によく似た、彼女と似ていない彼女のことを思い出していた。
そう、ほかの誰でもない、アリーシャ・フラウのことを。
彼女の妹の絵を手伝い始めてからというもの、俺と彼女はほとんど顔を合わせることがなかった。貌を合わせたら合わせたで、ごくたまに簡単なあいさつだけを交わし、しかもその場には必ずメルティーナがいた。しかし一度だけ、俺と彼女とふたりきりであいさつ以上の言葉を交わしたことがあったのだ。あれは、アンゼの一月には珍しく大粒の雨が降った日の午後のことだった。
「それで、あなたの名前は何と言ったかしら、旅人さん」
妹と同じく高い、しかし妹よりも幾分気だるげな声で彼女は言う。
「意外だな。君は、俺なんかに興味がないと思っていたけど、アリーシャ」
その日、俺は主たるメルティーナを訪ねて彼女らの家に行ったのだが、生憎彼女は体調を崩して休んでいた。そこでアリーシャが、手ぶらで帰ってもらうのも失礼だからと、俺に紅茶を振る舞ってくれたのだ。
「ないわ。でも、たまの客人ですもの。興味を持って差し上げるのも、礼儀のうち」
「そうかい」
彼女がこんなによく喋るのを聞いたのは、もちろんこれが初めてだった。彼女は低いトーンを保ったまま、決して俺と目を合わせないようにして話し続ける。
「この世の中、礼儀知らずは生きていけないわ」
「そうだな」
「ところで、サトリさん。妹は、メルはどう?」
覚えているじゃないか、という野暮な指摘をぐっと呑み込んで、俺はアリーシャの問いに応じた。
「毎日一生懸命だよ。絵を描いているのが本当に楽しいようで、活き活きしてる」
俺は彼女に思ったままのことを伝えた。彼女はそれを聞いて心底ほっとしたように息をつき、ようやく俺に視線を合わせてくれた。彼女の妹と同じオレンジ色の瞳が、強く硬い意思をもってきらめいている。彼女の瞳もまた、宝石のように美しかった。
「そう、そう――よかった。メルが楽しいのなら、よかった」
彼女の口数は、今日ですら決して多くはない。それでも言葉のひとつひとつは鋭く重く、表面上の言葉数を補ってなお余る質量を持っていた。妹を気遣う言葉も淡々としていたが、心がこもっていないとは感じなかった。きっと、アリーシャ・フラウはやさしいのだろう。心の底から、きっと。これは俺の妄想にも似た勝手な感想だが、アリーシャの持つやさしさは、彼女が鳴らすヴァイオリンの音色にも表れていると思う。初めて姉妹の家に来たとき以来、俺は何度もアリーシャの演奏を聴いてきている。練習とはいえ、演奏は相変わらず素晴らしかった。安い言葉でたとえるなら、まるで音のひとつひとつにやわらかな色がついた絵画のような――。
「――そういえば、今日は弾かないのか」
ふいにあの音の絵が恋しくなって、俺は目の前の彼女に問いかけた。アリーシャは目を見開くと、直後悲しそうに目を伏せた。意思の宝石は再びどこかに隠れてしまった。
沈黙がテーブルを支配する。姉妹の居室に、雨の音が入り込んでくる。じめじめとした重苦しい空気を吸って、心まで濡らしてしまうような虚無に俺たちは沈んでいった。
いくらかの時間が砂粒のように身体の横をすり抜けていく。砂の味にも慣れたころ、ようやく場を突き崩したのはアリーシャの悲しげなつぶやきだった。
「弾けないのよ」
こぼれるような言葉。
「私、雨の日は弾けないの」
楽器弾きはそっと、自らの左腕を抱いた。
「怪我、か?」
子供のころのね、と彼女は力なく笑った。胸が締め付けられるような、弱々しい笑顔だ。
「雨の日になるとひどく痛むのよ。お医者さんにも、後遺症までは、痛みまでは治せないって」
雨の日の年々痛みはひどくなっているのだと、アリーシャはまた笑った。
「もともと、『楽器弾きのリーナ』はサブキャラクターみたいなものだから。メルが、『本物』のメルが描き続けてくれればリーナは安泰よ。でも、マルチな才能を持つ芸術家としての寿命は、もうそんなに長くないのかもしれないけどね」
いつかこの痛みが雨のとばりを越え、晴れの日も雨の日もなく自分を苛むようになるのだと、アリーシャは信じているようだった。
「メルティーナの才能だけは、偽物だらけの私たちの中で唯一の『本物』だから」
妹思いの彼女は、涙を流して精一杯笑った。




