秘密の青
宿に戻るとミアがいた。こいつ、やっぱり暇なのだろうか。
「暇なわけではありませんからね」
さすが魔法使い、心を読まれた。
「それで、何の用だ、ミア」
「お茶を飲みに来ました」
「……やっぱり暇なんじゃねえか」
とりあえず、部屋にサービスとして置かれているティーバッグをひとつ、この図々しい客人に献上することにした。
俺の淹れた心のこもらないお茶にも素直に喜びの表情を向けてくれたミアは、部屋でひとしきりくつろいでいった後、ただのひとことだけを残して去っていくのだった。「次は、一週間後です」
俺もまた、ただのひとことだけ返事をした。
「ああ」
この短い会話こそがミアの目的であり、きっと、頭痛のタネであったのだろう。そのことが判ったのは、いよいよ彼女が立ち去ろうというその瞬間のことだった。
去り際ミアは、めずらしくこちらを振り向いて頭を下げた。しかも、困ったような、笑ったような、悲しんだような、とびきり色鮮やかな表情をぶら下げて。彼女の青白い肌に描かれた、このなんとも形容しがたい彼女の色彩。それは、どこかメルティーナの描く絵にも似ていた。俺自らの語彙の貧しさを恥じず表現するのであれば、それらは実に複雑怪奇にして魅力的であり、かつ、今にも失われてしまいそうな危うさを秘めているように映った。
そう、それらはすぐにでも壊れそうなのだ。
そんなミアの表情を見て初めて、俺は彼女が『一週間後の出来事』をできるだけ先延ばしにしようとしていたことを悟った。可能な限りそれを口に出すまいと、彼女は必死に『図々しい客人』として振る舞っていたのだと。しかしながら、彼女の魔法は流れていく時間に決して逆らうことはできない。この美しい魔法使いは、またも時間の前に膝を折り、どこか悲しみの強い藍色で、部屋の扉をくぐって立ち去っていった。
「ねえお兄さん、お兄さんには秘密ってありますか?」
それからしばらくの間、ミアは俺の前に姿を現さなかった。俺たちの永い付き合いの中にはたびたびこんなことがあったから、さして気にすることもなかったのだが。
ミアがいない間も、昼食後の時間帯は変わらずメルティーナの手伝いを続け、彼女の行く末を見守っていた。また、日が暮れるか暮れないかの時間帯には宿に戻って食事をとり、夜になればハルさんの情けない話を聞く。そんな、自分が今月あたりまえに築いてきた穏やかな毎日を、ただ何となく過ごしていた。何か、昔どこかで感じたような感覚――のどの奥に引っかかるものがあるようなそれ――があるようにも思ったが、俺はそれが何なのかにさえも気づくことができなかった。今になって思えば、すいぶんと平和ボケしたものだ。
ちなみにハルさん夫妻の仲直りに、当然ながら進展はなかった。
時間は一方向にのみ流れている。
それはすなわち、いずれそのときが訪れるということに他ならない。
あの家の奥の奇妙な物音のことも忘れかけたそのころがちょうどその日――ミアが苦しそうに告げた『一週間後』であった。
「お兄さん、あたし、芸術家は柔軟な発想のために外に出るべきだと思うんですよ。そういうわけで、今日は趣向を変えて散歩に出てみませんか」
一週間後、『その日』の午後三時。俺たちの生命を吸って輝きだした花を前に、愛らしい少女画伯は言った。
手に持った絵筆を、関心を失ったおもちゃのように乱暴に置き去って。




