花びら
一晩明けて、俺は自室で目を覚ました。壁の時計を見ると、まだ朝の六時前だ。顔の周りを覆う空気はきりりと冷え切っていて、俺に夜明けが来たことをより一層感じさせている。時間が早すぎることもあって、カーテンの隙間からはほんのわずかの光も伺えない。冬の朝は薄暗くて冷たかった。
部屋に戻ったのは日付が変わるより前だったように思う。雑誌を見せてもらった後は他愛もない話をして、ほんの少しだけお互いのことを知って、何となく切りのいいところで別れた。どうせまた会うのだろうからと、ごく簡単な別れのあいさつだけを交わして。
朝食にはまだ早い。昨日も似たようなタイミングで起きて時間を持て余した。だからこそ散歩をして、あの少女と出会うことになったわけだが。
「ああ、そうだ」
もしかしたら彼女は、朝の散歩を習慣にしているかもしれないじゃないか。だとしたら、今日もあの公園に行けば会えるのかもしれない。そうしたら、落とした絵の具を返すこともできるかもしれない。
あの少女、そう、リーナ・アールスに。
俺は起き上がって、なるべく急いで外出の準備をした。
それから五分ほど後、俺は清流亭を出た。わずかに明るくなり始めたばかりの空の下、相変わらず朝の通りは寒々しく、人も馬車もあまりいない。この様子ならと、全速力で公園に駆けていってしまいたい衝動にも襲われたが、必死になって追えば追うほど彼女が逃げていってしまう気がして、踏みとどまった。それは間違いなく、先生の夢見が心のどこかに引っ掛かっているからだ。先生は、俺では鍵となる少女に触れられないと言った。それがあの少女、すなわちリーナであるとも限らないのだが、俺にはどうしても彼女としか思えなかった。
ぐるぐると慎重に巻いたマフラーから飛び出した鼻の頭が冷えて、少しだけ痛む。生きているというわずかな実感――ともすれば忘れそうになる――を抱えて、俺はいつもどおりを装った歩調で坂と森公園に向かったのだ。
「――いるかな、あの子」
坂を登りながら辺りを見回す。目に入るのは寒さに耐える力強い木々と、興味ありげに俺を見つめるお調子者のカラスたちばかりで、人間は一向に見当たらない。内心ほっとしつつも、坂のてっぺんで胸を一筋の乾いた風が吹き抜ける。ああ、彼女には会えないのかと。
しかし、先生の夢見を信頼するなら、俺たちは会わない方がいい。しかしいくら避けようとしたって、先生がそう夢に見た以上は再会してしまうのだろう。彼女が俺に夢を語るというのはそういうことだ。昔から。そしてそれよりももっと深いところで、もっと感覚的なところで、俺はあの少女に興味を持ってしまった。ひまわりのような娘とはよく言ったものだ、顔のすべては伺えなくても、彼女の笑顔は美しかった。俺は、そう思っている。
やっと坂を登りきればそこは、ただ平らな広場だった。木製の古びたベンチと赤く塗装されたブランコだけが置かれていて、辺りは一面木々に囲まれている。しかしこの場所と坂に連なる地点だけが丸く切り取られたかのように、地面が露出していた。ここにはにぎやかしいカラスたちもおらず、まるで坂の下とはぷつんと切り離されてしまったかのような、寂しくて小さな空間。しかしこの寒くて小さな広場が、紛れもないこの公園の終着点だった。そして、残念ながらここにも彼女はいなかった。
この公園では彼女に会えなかったのだ。
俺は砂利交じりの地面を踏みしめながら、ペンキの剥げかかったベンチの前に向かった。塗られたペンキは深い緑色。乱暴に座れば壊してしまうのではないか。そう思ってしまうほど、このベンチは古くなっている。俺は静かにそこに腰かけて、大きく息を吐きながら暗く晴れた空を仰いだ。
木々が、わずかな風に応えてざわざわと鳴っている。彼らと空の境目が白くなりつつあることから、このベンチは東を向いているのだろう。少女はこんなところで、何を考えていたのだろうか。――そのときわずかな違和感を感じて、ふとベンチに置いていた手を見る。すると左の手のひらに、太い木のとげが刺さっていたのを見つけた。ウールの手袋を突きぬけて、皮膚に刺さってしまっているらしい。
「あーあ……」
ちくりとした小さな痛みで思案の輪がほどけた。それだからだろうか、刺さってしまったそれを見つめていた視線が、俺の世界の端っこにあった別のものを捉えたのは。
「ん、何だこれ」
塗装のペンキとは明らかに違う丸い筋が、ベンチの上にくっきりと描かれていたのだ。そしてその周りには、いくつかの色の軌跡が不規則に散らばっている。偶然落ちてしまったような赤色、青色、緑色。しかもそれらは、古いものや新しい色が混在している。さらに注意深く地面に視線を送ってみると、細いタイヤ痕のようなパターンが刻まれている事実さえ見つかった。そういえば昨日、俺は自転車にぶつかられたのだ。
「いつもここで絵を描いているんだな……」
俺は彼女の痕跡を、確かに見つけた。




