リーナ・アールス
ハルさんの泊まる部屋はやや広い。しかしそのレイアウトは俺の部屋のものとさほど変らず、よく似ている。派手さのない調度品に、白い壁の小さな時計、青いカーテン。ただし、目立って大きく異なるところが一点だけ。
「ここ、ツインの部屋なんですね」
「……まぁ、な」
ハルさんは窓際――宿の裏口側、「坂と森公園」に近い路地に面した方――に置かれたテーブルセット(そういえば、これも俺の部屋にはないものだ)の脇に立ちつつ言う。何だか歯切れが悪い。もしかして、彼の抱える「秘密」に関わりがあるのだろうか。
「ハルさん?」
「……」
食堂から持ってきたらしいコーヒーを手に、線の細い木製の椅子に荒っぽく腰かけた彼は、そっぽを向いて俺にこう言った。
「君も、コーヒーをもらってくるといい」
「……あ、はい」
呼んでおいて一体何なのだとか、結局肝心なことは教えてくれそうにもないじゃないかとか、彼に色々と言いたいことはあった。しかしまあ、ここはとりあえず従っておくことにする。その代わり、俺をはぐらかすときの彼の横顔が、照れたような苦虫を噛み潰したような後悔したようなおもしろい色合いになっていたことは、敢えて本人には言わないことにしよう。きっと彼自身も、そのことを少なからず判っているだろうから。
なお、部屋を出る直前、ハルさんの「しまった」というつぶやきが聞こえた件についても、ここでは問わないこととする。
「ただいま戻りましたよっと……」
数分後、俺が部屋に戻ったときには、ハルさんは普段の調子を取り戻していた。あの仏頂面で、今度は文庫本に視線を落としている。
「……怪しい本じゃないぞ」
「誰もそんなこと思っていませんよ」
彼の、冗談か天然か判別の付きにくい発言をほどほどに受け流しながら、俺はコーヒーを持ってテーブルセットに備え付けられたもうひとつの椅子、すなわちハルさんの向かいに腰を下ろした。ふと見れば、先程はなかったはずの本の数々が、いつの間にか乱雑に、テーブルの上に積み上げられている。その山の中にはお堅い本やら流行りの小説やら、とにかく厚さもジャンルもバラバラの、様々なものが入り乱れていた。そんな本の山を眺めているとき、俺の視線はそこに埋もれた、見覚えのあるただ一冊に奪われたのだ。
「これ、今度の祭りのパンフレットですよね」
ハルさんは本を閉じて、俺の指さすそれに視線を移した。彼は一瞬だけだがぱっと微笑むと、少しだけ楽しそうに語り出した。
「ああ、そうさ。俺も芸術鑑賞は嫌いじゃないものだから、広場で配っているのを貰ってみたんだ」
山の下の方に埋まっていたのは、俺も貰ったあの一冊、すなわち同盟記念祭のパンフレットだった。俺が興味を示したその一冊を、ハルさんはわざわざ山から掘り出して見せてくれた。
「すごいよな、行政側もずいぶん力を入れているみたいだ。十五周年なんてちょっと中途半端だが、今度の祭りはほら、帝国の女皇様の即位祝いも兼ねているって話だろ」
ハルさんからパンフレットを受け取り、俺はそこに書かれた内容を改めて見直す。冊子そのものは薄いのに、よく考えればなかなかの情報量が載せられている。ページによっては文字がぎっしりと詰まっているあたり、並の小冊子では太刀打ちできない。
「ああ、この街に留学していたっていう――元々芸術のお好きな方だそうですし、何かとちょうどいいんでしょうね」
俺は冊子を読みながら返事をする。昼間は軽く読み飛ばしていたせいであまり気にしていなかったが、例の若手にスポットを当てた展覧会には、来賓として女皇自ら足を運ぶということが書かれている。これって結構、いや、かなりすごいことじゃないだろうか。
そんなことを考えているさなか、ハルさんはふと、こんなことをつぶやいた。
「縁の深い女皇さんのこともあるだろうが、街としても、これを機にリーナ・アールスのことを派手に売り出したいんだろうなぁ……」
そして俺は、今まさに彼女の名前に視線を移したところだった。そんなこんなでついつい身体が反応して、素っ頓狂な声を出してしまったのである。
「えっ?」
それにはハルさんもびっくりしたようで、俺たちふたりは、お互いにおかしな顔をしてしばらく見つめ合うことになった。しかしどうだ、この状況、驚きを禁じ得ないほどうれしくない。どうやら彼も同じことを思ったようで、いつしか俺たちは前を向くことをやめた。
「……すみません」
「……まぁ、いいさ。それより何だ、君はリーナ・アールスのことが気になるのかい」
ハルさんはコーヒーを飲みつつ問い掛けてくる。彼の視線がカップの中に落ちているせいで、俺の注意は顔ではなく、自然と前に垂れ下がってきた金髪の方に向かう。俺の髪も金色だが、彼の方がいくらか色が明るく、少し青みがかっている。ちなみにユーリアさんの髪は俺たちよりも暗く、やや茶色に近い。一見同じような金髪でも、こうやってよく見れば全然違うものだ。そういう何の役にも立ちそうにないことを考えつつ、俺は彼との会話に再び移行した。
「――あ、いえ、特別気になるっていうほどではないんですけど、あまりにも注目を集めているみたいだから、つい」
俺がその名前に目を留めたことには、本当に彼に言った以上の理由などない。それなのに、ついついごまかすように笑いながら返したのはどうしてだろう。
ハルさんは小さく相槌を打った後に、本の山を漁りながらこう教えてくれた。
「まぁ、彼女はすごいよ。まだ十代後半の少女だって言われているんだが、すぐれた絵描きであり、さらに楽器の演奏まで見事にこなす。本当、冗談みたいに器用な娘さ」
「――言われている?」
そこまで注目されている芸術家であるのなら、その言い方はちょっと不自然じゃないだろうか。今度はベッドのわきに置いた旅行かばんをせわしなく探りながら、彼は続けた。どうやらかばんの中にも、まだいくらかの本が入っているようだ。
「ああ、彼女は年に一回の演奏会出演を行うのと、ごくまれに展覧会に姿を現すことがあるくらいで――本当に、芸術活動以外ではまったくと言っていいほど人前に出てこないんだ。だから、実のところ詳細なプロフィールもよく判っていない。名前だって実名じゃないかもしれないし、十代後半という年齢も推測にすぎない。これだけ話題に上がってるんだから、普通はもっと目立つことをやりたがりそうなものだが。おまけに顔も可愛いしな」
部屋をにぎわしていた探検の音がはたと止む。
ハルさんはどうやら目的のものを見つけたらしい。
「よし、あった――この雑誌に、彼女の近影が載ってる。なかなか珍しいものだよ。ほら、見てみろ」
心なしかうきうきとはずんだ顔をして、彼は素早くテーブルの方に戻ってきた。どうやら探検の成果をさっさと俺に見せたいらしく、お目当てのページを開いて、ややぶっきらぼうに俺に差し出してくる。そうしたときの彼の目はきらきらと輝いていて、ほんのちょっとだけだが、この大人の子供じみた部分をかいま見た気がした。
そしてそれから間もなくのことだ。俺は、ハルさんの差し出した雑誌のページを見て、愕然とすることになる。
何故ならそこには、今朝出会った少女の、紛れもないあのオレンジ色の瞳が写っていたのだから――新進気鋭の若手芸術家、リーナ・アールスの近影として。




