9話目
黒房はその後「物忌」のために京を発った。京の黒房の屋敷には柳や草の葉に書かれた物忌の文字がつるされていた。
その話は燐の耳にも届いていた。
自分が住んでいた神社にも物の怪を払う為とやって来ていたことを燐は思い出していた。さして広くもない部屋で燐はただ黒房の身を案じていた。
婆も黒房についた物の怪を払い切れなかったと言っていた。今また、何かが黒房を苦しめていると思うと指先から震える。
燐は心から黒房を信じ、そして愛していた。深すぎる気持ちに燐自身が溺れかけている。
「わたくしに出来ることは何もないのでしょうか、楠様」
開かれた簾の向こうに広がる高い青空に向かい、燐は呟いた。
火が放たれた神社で、あの楠はどうしているのだろう。いつでも自分を慰めた、自分を守ってくれた楠も婆も今は燐の傍にはいない。
自分一人がどれだけ無力かを思うと、消え入りたい気分が燐を襲う。頼る者もおらず、ここで自分は何をしているのか。その意味すら曖昧になりそうになる。
燈江に報告したあの、侍女ではなく、その後新たについた傍つきの侍女が空ばかり見上げる燐を案じるように声をかけた。
小柄で腫れぼったい瞼の女だった。髪も腰までとそれほど長くもなく、大人しい性格をしていた。燐にとってはとても居心地のよい、そして心許せる相手になりつつあった。
「燐姫様、ご気分がすぐれませぬか」
「いえ、黒房様は今頃どうなされているのかと。その身を案じると何も手につかないのでございます」
「噂ではありますが」
侍女は燐姫の様子を窺うように話し始めた。
「黒房様が物の怪に会ったのではないかと。北の屋敷で今までよりもさらに多くの祈祷師たちが呪術を行っております」
燐が振り返る。燐の輪郭を日が照らし、伏し目がちにこちらを見るその妖艶な美しさを際立てるのを見て侍女は心奪われるような気がした。鮮やかな色の菖蒲の重を着た燐を美しいと思わない者はいないと確信出来るほどだ。
そんな侍女の気持など察することも出来ず、燐は不安げに顔を歪めた。
「北の屋敷、婆様に何かあったのですか」
「お婆様のご様子まではわたくしには分かりかねます。ただ、黒房様が明け方に北の屋敷の前でご気分がすぐれぬようだったと、お聞きしました」
「まさか物の怪が」
婆だけでなく黒房まで奪いに来たと言うのか。
「あくまで噂にございます。祈祷師の呪術は強まり、案ずるようなことは今は何も起こっておりませぬ」
「ですが」
北の屋敷という言葉を聞いて、燐の心は大きく揺れる。婆と黒房を奪うのならばわたしを奪えばいい、燐は硬く目を閉じて袂で顔を覆って身体を震わせる。
侍女は燐の傍に寄り添うとその小さな背にそっと触れた。
燐は顔をあげて侍女を見詰める。目を細め微笑む侍女が見えた。
「お気を確かに、燐姫様。物忌が終われば黒房様はまた燐姫様のお顔は拝見に来ると申されておりました」
「婆様はまだ目を覚まされぬのか」
「わたくしには」
侍女は目を伏せた。侍女は少しでも燐が気を持ち直すために、笑顔を見せ言った。
「お美しい、紅にございますね」
「これは」
燐は自分の唇に触れ、ようやく少し微笑みを浮かべた。
「これは黒房様がくださったものでございます。都の貴族の間で流行っている紅で、わたくしに似合うと買って来て下さりました」
「とてもお似合いです、初めのひと塗りは」と侍女はいたずらっぽい上目遣いを燐に向ける。燐は目を伏せ頬を赤く染めながら「黒房様がさしてくださいました」と呟く。侍女は鈴のように声を発てて笑い「燐姫様へのご寵愛はわたくしどもの間でも伝わってきております」と燐をからかった。
「何を申されるか、黒房様は北のお方を一番に愛されておられよう」
燐は侍女に照れながら言い、その言葉を自分にも言い聞かせた。
生暖かい風が吹いた気がした。燐の白い手にそっと絡むような風だった。燐はそれを察して外を見やる。
楠に寄り添った時に腕を回された気になっていた、その感覚と似ていた。
「楠様」と燐は呟いた。風に気がつかない侍女は首をかしげた。
燐はまだ仄かに残る、風の感触を思いながら、それが楠だと確信していた。