8話目
疼くような胸の鼓動の煩わしさで黒房は目を覚ました。辺りはまだ暗く、横には深く眠る燈江の顔が仄かな火に映されて見える。
黒房が紅をさした小さくもふくよかな唇が時々芋虫のように動く。燈江が大きく寝返りを打つと白い単がはだけて乳房があらわになった。黒房は燈江が起きる気配を見せないことを確認してから羽織だけを着て外に出た。
生暖かい風が吹く。いつもは聞こえる虫の音が全くしない。歩くたびに足の下で砂利が鳴るのだけが響き、湿った空気が体中に絡んで重い。風が頬に舐めるように吹きつけ気分が悪い。
自分を誰かが呼んでいる。
起きてすぐ、黒房は確信していた。呻くような、喉の奥から引きずり出すような不快な声。婆の声だ。この頃、その声が耳をつんざいて聞こえることがある。気のせいだと思うようにしていたが、もう我慢がならなかった。
足は自然と北の館に向いた。屋敷の前にたたずみ、様子を窺った。炊かれた火が格子戸から洩れ、揺らめくのが見える。黒房は目を細める。入ったところで無意味なだけだ、そう思うが喉をひりつかせた声は一向に消えない。じわりじわりと締め付けられる胸の不快感で吐きそうになる。どうにかこれを消さなければ自分は気が狂うとさえ思えてくる。
今更の罪悪感からか。黒房は思う。
「お方にもその様な人間染みた心がおありか」
耳元の不意な声に黒房は驚いて周りを見渡す。既に気配は消えている。耳についた擦れた声も消えていた。ゆっくりと北の屋敷に目を戻す。部屋の中から笑い声がする。
「そんなはずはない」
黒房は独りごち、恐怖を隠して重い扉を開いた。そうして息を詰まらせる。額にじわりじわりとにじむ汗に唇を噛む。身体が動かない。それが恐れからなのか、それとも今自分の前の座敷で腰を丸めた婆の眼力なのかは分からない。
「どうしてお方がここにおられるのじゃ」
黒房はかろうじて保った自制心で婆に話しかける。婆は袖で口元を隠し、小さく擦れた笑い声を発てた。
「どうして、とな。可笑しなことを申される。ここはこの老いぼれのために用意して下された屋敷であろうに」
「じゃが」
「そう、私めはおらぬ筈じゃ。哀れな燐姫様を縛り付ける為のお方の嘘ですものな。惨い事をなさいましたな、黒房様。山賊どもの哀れな末路、この婆はしかと見届け、無駄にはしませんでしたぞえ」
婆の姿に残像のように重なる影に黒房は尻もちをつきそうになるが、それも出来ないほど身体が硬直している。逃げようにも何かががっしりと脚を掴む。恐怖で体中が震え、声も出ない。
重なる影の姿は、頭が裂け、熟れた果実のように盛り上がった片目から血が滴り、腐乱して肉が朽ちた口から骨が見える。それが婆なのか、山賊の亡霊かも分からないほどだ。
婆は全てを悟っている。黒房が犯した罪も行為も全てを知った、その憎悪と怒りに満ちた目が自分を掴んで離さない。
「ご忠告しましたぞ。お方には、いつまた物の怪が憑くとも限らないと」
残像は消え、黒い影を揺らし座る婆の目が鈍く赤い光を放った。
物の怪めと、黒房は心で叫ぶ。
「燐姫様はわたくしの生き甲斐。それを知り、この老いぼれをあの盗賊をだまし使い殺し、そうして燐姫様を奪った。何と醜く浅ましい人間であろう」
「黙れ、お主から燐姫を守ったのじゃ、ああでもせねば燐姫はいつまでもお主の呪縛から解かれなんだ」
黒房は心を押し殺し、叫んだが。滑稽なほど声が震えていた。
婆は顔を下げ、笑い声をあげた。
「守った、守ったとな。ならばお方は片時も燐姫様を守らねばならぬ。燐姫様を傷つけることがあれば婆は必ずお方を喰い殺しましょうぞ」
「黙れ」
黒房は大声を張り上げ、土間で燃える行燈を蹴り倒した。炎が消える。婆の影がもう一方の炎に照らされ、伸び縮みしそのまま暗闇に溶け込むようになくなった。
婆の姿が消えると、黒房の身体に圧し掛かっていた息苦しさが軽くなる。黒房はその場にしゃがみ込み、額ににじむ脂汗を払うことなく荒い呼吸を繰り返した。
黒房が発てた大きな音に警備の兵たちが集まってきた。
「なんだ、今の音は」
目を見開き、粗い呼吸を発てる男が黒房だと気がつくと、兵士たちは顔を見合わせた。
「黒房様、一体何が」
「何でもない、大切なこの屋敷に忍び込んだネズミを追い払おうとしただけじゃ。祈祷師を呼べ、北の屋敷の祈祷を絶やすな」
警護兵の幾人かが頭を下げかけ出す。黒房が立ち上がるのを促そうとする他の兵を黒房は袖で払う。
「構うな。燈江の元へ帰る。後始末は任せた」
怪訝な顔の兵士たちを見ることもなく、黒房は踵を返した。