7話目
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燈江は琴を弾く手を止めた。余り夢中になれず、頭には先程から違う事が回っていた。側で調子をとっていた楓は打つ手を止め、心配そうな顔を作って燈江を見た。
「どうなされました。」
燈江は唯、開け放たれた格子戸の外を見詰めている。
燐がここへやって来てもう直ぐ一月が経とうとしていた。空の色は段々と濃くなり日は春らしくなっていく。木々は若葉を芽吹いてきていた。
しかしこの一月の間夫の黒房は殆ど燈江の元へは、やって来なかった。新しく側室が出来ても、何日かに一度はかならず燈江の機嫌を窺いに来ていた。黒房が自分の家系より位の上の家系を持つ燈江を蔑ろにする事は今までになかったのだ。
それ程、心寄せる女なのか。
燈江は今までに一度も燐の姿を見た事がない。囲われた側室の屋敷へ行って相手を自ら窺うなどという事は彼女の自尊心が許さなかった。唯、噂にしか聞かぬ相手をぐるぐると想像しながら、毎夜毎夜を独りで過ごす事に燈江は苛立ちと激しい嫉妬を感じていた。
琴の弦を激しく掻き毟る。
酷いその音に、楓は慌て、耳を塞いだ。目を瞬きながら燈江を見る。
「お止め下さりませ、燈江様。その様な音を出されては琴が痛みまするぞ。」
燈江は音を鳴らす事を止めたが、眉は顰められ、見るからに不機嫌そうだった。楓は耳を塞いでいた手を外すと、燈江の前に座りなおした。しかし彼女は楓を見る事はない。燈江は燐の事を考えていた。
一度苛めてやったあの侍女は相変わらず燈江の元へやって来ては、燐の様子を彼女に語っていた。その度に苛立ちと憎しみで胸の辺りが熱くなっていくのが分かり、幾度かその侍女に奴当たってみた。侍女はその度に鼻の頭を赤くし、袖で顔を覆った。こんなにも憎むべき相手なのにも関わらず、やはりその情報が気になり、またその侍女に報告を命令した。しかし侍女が言うにはその無知さ故に黒房は燐の横を離れないのだった。
燈江にはそれが理解できなかった。
知恵も教養も美しさも、都の貴族の中で磨かれた燈江には、どうして自分が選んだ夫がその様な女に惹かれるのか分かるはずもなかった。身分の低い、後継人も居ない娘に、自分の夫が強い執着を見せる。それが自尊心を傷つけた。納得出来ない事で、他の側室達よりも燐の存在が煩く感じられた。
燈江が落ち着きなく指につけた琴爪を弄っているのを見て、楓は猫なで声を出して言った。
「燐姫様の事でございまするか。何をそんなに気になさっておりまする、燈江様。お方らしくありませぬぞ。」
燈江は楓を睨みつけた。楓は口を噤んで俯いた。
機嫌が悪い時の燈江には逆らわない方が良い。兎に角機嫌が直るような事をしなければ、自分に奴当たられるのは解っている。
楓はどうにか燈江の気を惹こうと二階棚から櫛を取り出した。
「おみぐしを梳かしましょう。」
「いらぬ、さがれ」
燈江は楓に琴爪をはずして投げつけた。楓は小さく悲鳴を上げ、覆った袖から燈江の顔を見る。行き場のない怒りにただ息を荒くしているようだった。
自分がここにいても何の得にもならない。そう理解した楓は手をついて挨拶すると部屋を後にした。
一人残された燈江は鏡を引き寄せ、自分の顔を映した。
白い肌、猫のような眼、そうして赤い紅が点された唇はどれをとっても誰にも引けを取らないほど美しいと思う。それが黒房が心寄せる女であっても、自分が負けるとは思えない。
髪を撫でつけてみる。椿の油で潤う黒髪は燈江の自慢だ。欠かさず毎日、時間さえあれば楓に梳かせている。
「何が、劣ると言うのじゃ。」
燈江は独りごちる。
目を瞑り、深呼吸を繰り返し冷静さを保とうと努める。こんなことで取り乱していては自分の威厳は他の女に示せなくなる。たかが側室の一人、自分に何もかも勝てるわけがないのだ。
黒房をこんなにも欲し、焦がれたことが燈江には一度もなかった。自分から嫉妬とこの味わったことのない感情を解き放つために、黒房の寵愛が欲しかった。
「黒房様にございます」
はっと顔をあげた。
思いがけない言葉だった。
一瞬侍女の言葉が信じられず、呆けた燈江だったが、すぐに鏡をしまいこみ、襟や服を整えながら「ここへ」と言う。
まだこんなにも日が高いうちから夫がここに来ることなど考えもしていなかった。
暫くして黒房が燈江の前に現れた。
燈江は恭しく頭を下げ、黒房を待った。黒房が自分の前に座るのが分かる。燈江は自分の紅潮する頬をらしくないと嫌悪した。
「表をお上げ、燈江」
「随分とお待ち申し上げておりました」
「そう皮肉るでない、どんなにかかっても必ずお前の元へ我は行くぞ」
黒房はそう言って両手を広げ燈江を抱え込むように抱きしめる。
「まだ日が高うございますよ、黒房様」
燈江が艶のある笑い声をあげた。
「今日はずっとお前と過ごそう」
燈江は顔をあげ、黒房の腕を掴んだ。
「まことに、ございまするか」
黒房は燈江の髪を撫でる。
「いつも見事な黒髪じゃ、燈江は都一、美しい女子に違いないな」
燈江は赤い唇の端を歪めるようにあげる。彼女はその言葉が何より欲しかった。今この瞬間にこの場に燐姫がいることを想像すると、余計に顔がにやける。どんなに悔しがるだろうか、憎々しく思うだろうか、その顔を見て「醜い顔じゃ」と言ってやりたかった。
黒房は袂から絹の布にくるまれた物を取り出した。
「土産じゃ、受け取っておくれ」
「なんと」
燈江はそれを受け取ると、せわしなく布を剥いだ。中からはハマグリの貝殻が入っていた。開けると紅が現れた。今までに見たこともない鮮やかな朱い紅だった。
「今、都の貴族で流行っているそうじゃ。見事な朱じゃろう、お前に似合う」
燈江は紅に見惚れ、その小指ですくおうとした。それを黒房が止める。燈江は不思議に黒房を見詰めると、黒房はその紅を取り上げ、自分の小指につけた。
「どれ、我がその唇につけよう」
黒房は今までこれほどまで燈江に尽くしたことがなかった。それゆえいつもは勝ち気に振る舞う燈江も戸惑い、頬を染めて袖で顔を隠す。
「どうなされました、お方らしくない」
「何、長い間燈江の顔を見ずにいたのじゃ、日が沈まぬのなら、それまではお主の自慢の髪や唇を愛でさせておくれ」
艶やかな眼を黒房に向け、燈江は唇を突き出した。黒房の指がそっと燈江の唇に触れる。それだけで燈江は身体が震えた。
「やはりふっくらとした、お前の唇によう似合う」
燈江は黒房の広い懐に身を預け、目を閉じる。
「ほんに、嬉しい限りでございます」
「今日の燈江はよう甘える」
黒房は笑いながら燈江を抱きしめ、その髪を撫でた。
自分を見詰めるこの黒房を、燐姫が知ればいい。知って自分がいかに小さな側室にすぎないかを思い知れと燈江は含み笑いに肩を震わせる。