5話目
燐に着物を届けた侍女は、その足で黒房の正室が居る屋敷までやってきた。部屋の中へ入ると、豪華な牡丹花の刺繍が施された小袿を来た、黒房の正室、燈江を中心として、数人の女達が軽やかに笑い合っている最中であった。燈江は威圧感と強さがその顔に表れていた。切れ上がった眼と、赤く紅を塗った口が美しくも強く他人を圧倒した。部屋は香の香りがきつい。
「本に、燈江様のお話は面白き事ばかり。」
赤い着物を着た女は身を乗り出し、周りの女達に目配せをした。皆はしきりに頷きあう。
「楓は口が上手い。妾も見習わねば。」
燈江はそう言って横の黒塗りの高杯に盛られた丸い豆菓子を口に入れた。
「まぁ、何を仰いまするか。皆が思っている事を口にしたのみにございます。」
楓は小さな口を、よりきゅっと窄めて、得意気に言う。彼女は正室燈江のお気に入りであった。小さい体と口を除けば、何の見所もないような女だった。
燈江は楓の顔を見て、時々無言で笑みを浮かべた。自分と比べて明らかに劣る楓はそれだけで彼女を満足させた。逆に楓は自分を知り、燈江の自尊心を持ち上げ、安心感を与える事を心得ていたし、それで暖かくここで過ごせるのなら何も構う事はなかったのである。そうして周りで鈴が震えるような声を出して笑い合う女達も殆どがそう考えていたに違いなかった。
自分をより引き立たせる女。
燈江はそんな女達を可愛がった。
地味な顔のその侍女は、得意気に、足を崩して寛いでいた北の方の前まで歩み寄り、座ると頭を下げた。笑いが止み、周りの女達の視線が一気に侍女に集まる。穏やかな雰囲気は一転し、その奥の冷たい空気が流れ始めた。
侍女は臆する事なく睨み返し、その後で不器用な笑みを燈江に見せた。彼女もまた、男から相手にされない為、この屋敷で力のある燈江に可愛がってもらおうと考えていたのだ。
燈江は楓の言葉で機嫌を良くしていた為、余裕の笑みで彼女を包んだ。
「何か、ありましたのか。」
いち早く勘付いた楓が口を出した。横の女もそれに合わせ、口を笑いで引き攣らせた。
「梅木に鶯がとまっていたのが、珍しかったのでしょう。」
囲いの一人が言うと皆は業とらしく笑い声を発てた。
侍女はすぐに顔を真っ赤にさせ、苛立った声で答える。
「そのような事で参ったりはしませぬ。お方達にも出来ぬようなお話を、燈江様にお持ち致したのでございます。」
「無礼な口を。」
独りが侍女の言葉に喰いかかろうとした。しかし楓はそれを制す。
「みっとものうございますよ。こうまでこの侍女が申すのですから、聞いてみようではござりませぬか。」
楓にとってこの侍女など全く敵にならない相手だった。侍女がない教養話をして燈江を怒らせ恥をかくのは眼に見えている、そうして自分がそれを宥める。楓は思わず笑みを溢して侍女の方へ袖を振った。
「申してみなさい。」
侍女は不満気に楓を一瞥したが、頭をついてから燈江の正面に座った。燈江は半分見下したような眼でこちらを見、肘掛に凭れ掛かった。片足を立てて、息を吐く。侍女は燈江の姿を間近で見て、正室の前だという緊張感を思い出した。威圧感が他の侍女たちと全く違う。侍女は圧倒され、下を向き、ついた指が震えているのを見ながら話し始める。侍女の顔が徐々に上気していくのが分かった。
「只今、黒房様のお言いつけで新たな側室様に御着物をお持ち致しましたので。そのご様子をお伝え致そうかと…。」
女房達のざわつきが聞こえ、辺りの様子が緊迫したのが分かった。侍女は息を吐いた。確かに驚かせてやった、という思いが込み上げてくると侍女は得意になり、燈江の様子を上目使いに伺った。
燈江は、あから様に不愉快そうな顔をしていた。
侍女は困惑した表情を浮かべて呆然と、前に座る正室を見た。
「新しい側室。その様な話、初めて聞いたぞ。」
「え。」
侍女は驚いて身を引くと、顔を青くして懸命に自分を弁護し始めた。
「しかし…お届けした御着物はお方様方が召される物と同じでした故に、私は燈江様も御承知なのだとばかり…。」
「知らぬ。」
燈江は強い声で侍女の声を遮った。その後その弱々しい目を半ば睨む様にして見つめ、言った。
「申せ。」
「はい。」
「様子を伝えに来たのじゃろう。申せと言っているのが分からぬのか。」
侍女はついた手先が冷たくなり、より大きく震えているのを見て泣きたい気持ちが込み上げるのを感じた。
「は、はい。色がお白くて小柄なお人でございました。」
「…美しかったか。お前の眼から見て。」
答えた侍女に対して急に燈江は慰めるような声でそう聞く。赤く紅を引いた唇が、微笑んでいる。今にも泣き出しそうな侍女は思いもよらぬ燈江の優しい声を聞いて、反射的に首を縦に振ってしまった。それを横で見ていた楓は思わずふき出しそうになるのを必死で堪えていた。彼女が侍女を追い詰めて楽しんでいる事は楓には分かっていた。侍女が肯定した事に対してまた燈江は顔を顰めた。それを見た侍女は大慌てでまた弁護し始める。
「ですが、私は燈江様が一番お美しいと思っております。お顔は勿論の事でございまするが、知性も一番と。一方のお方様は全く無知なのでございます。この私奴などに尊敬語をお使いに。其の上に、黒房様と同じお屋敷に自分が居るなどとお思いになって居られましたし…。ですから私は少々皮肉を申したのでございます。」
「何と申したのぢゃ。」
楓の隣に居た女が薄笑いを浮かべて、侍女に尋ねた。侍女は何を言っても自分が笑いの対象にされる事を悟り、口を噤み俯くと、両手を握り締めた。そこに燈江が肘をつき直しながら強い口調で言う。
「申せ。」
すっかり勢いを失った侍女は嗚咽を抑えて震える声で答えた。
「し、少々お休みになられ過ぎたのではないか、と…。」
途端に部屋に笑い声が響いた。今まで耐えていた笑いを吐き出して、楓は笑い転げた。一人が苦しそうに笑いながら侍女に言う。
「確かに、私達では到底話せぬような話ぢゃ。」
今度は言い返す事もなく、侍女はただ泣く事を必死で耐えていた。女房達の笑いが収まると、それまで黙って侍女を見つめていた燈江が口を開いた。
「ここまでそれを言いに来た事は褒めようぞ。」
燈江は高杯の豆菓子を右手で掴み取ると、侍女に思い切り投げつけた。侍女は声をあげ反射的に袖で身を守った。白く砂糖がふられた豆はあちらこちらに散らばって転がった。燈江は先程と変わらぬ目で、侍女を見る。涙でぬれた頬に、べったりと髪がつき鼻の頭を赤くしながら彼女は燈江を見た。目蓋が腫れている。
「褒美じゃ、喰うて帰れ。」
侍女は嗚咽を上げながらも、散らばった菓子を一つ一つ拾い集めては口に入れた。その様子を見ていた楓は呟く。
「…本に燈江様は恐ろしい方じゃ。」
楓が目配せすると、燈江は漸く笑みを浮かべた。