4話目
燐は見覚えのない、自分の部屋の倍はあろう部屋に寝かされていた。頭を乗せた枕から香の匂いが香ってくる。小袖と袴のみで後の着物は取り払われ、傍の衣架に掛けられていた。簾越しに朝日が差し込んで、何重もの光の線を床へと引いている。辺りは静かで、甘く冷たい霧が漂っていた。
「お目覚めにございますか。」
燐は素早く振り返った。それが婆のような気がしたのだ。しかしそこで自分を好奇心溢れた眼で見ているのは、地味な顔立ちの侍女であった。手には水の入った桶と、手拭いを入れた盆を持っている。立膝で燐の元へ来ると、桶に手拭いを浸す。
「今日は本に暖かくなりそうでございますこと。」
「ここはどちらにございましょうか。」
燐はぼんやりと尋ねる。侍女は口の端を一瞬持ち上げたが、直ぐに無表情に変わった。そうして、燐に固く絞った手拭いをうやうやしく差し出す。
「近衛少将様のご長男、黒房様のお屋敷にございます。もう直ぐ機嫌をお伺いにいらっしゃると、使者が申しておりました。その前にお支度を。」
嗚呼そうだった、と燐は思いながら侍女の手から手拭いを取った。顔に静かに押し当てると、頭に冷たい刺激が走り抜けた。
燐は何度か頬に手拭いを当て、また丁寧に折りたたむと侍女に差し出した。
「有難う、ございまする。」
燐がそう礼を言うと、侍女はまた口の端に笑を浮かべ、手拭いを受け取り盆の上に置いた。暫く侍女は向こう側を向いていたが、やがて着替えの着物を差し出す。燐は侍女の行動を不思議に思いながらも、素直に受け取ると、自分で着付けをし始める。侍女は唯黙っている。燐が後ろ向きで濃い緑色の単に腕を通すのを、細く窄めた眼で観察するように、ねちねちと見つめていた。燐は気づかず、次に真っ赤な袿に手を通す。そうして後ろ向きのまま侍女に問うた。
「黒房様は、どのお部屋にいらっしゃるのですか。」
「まぁ、燐姫様、何をおっしゃられるのでございます。」
侍女は上擦った高い声を上げる。燐が驚いて振り返ると、莫迦にしたような笑みを浮かべた侍女は言う。
「こちらは確かに黒房様のお屋敷にございますが、別館にございます。黒房様自身のお部屋に住まわれるのは正室でおられる北の方様のみでございましょう。まさか、その事をお知りにならない訳でもございますまいに。少しお休みになられ過ぎましたかしら。」
途端に燐の顔が赤く染まった。そうして顔をそむけ言葉を詰まらせた。侍女は燐の様子に満足すると、しつこい視線を残し、盆を持って部屋を後にした。
燐は恥ずかしさに体が震えるのが解り、両手で両腕を押さえつけた。何故今の女があのような事を言ったのかが理解出来なかった。どうしてそのような言われ方をされたのか、それが貴族の言葉使いなのかと燐は必死で考えてみた。しかし結果は出てこない。やはり自分は場違いだからだと、そればかりが頭に浮かび、泣きたくなる気持ちをぐっと堪える。しかし腹の奥から熱く硬い何かが押しあがり、耐え切れず涙となって零れた。
自分は何も知らない、貴族達の約束事も慣習も、歌の詠み方も作法も。なんと惨めなのだろうか、なんと寂しい事なのだろう。
一人きりな気がした。
燐は急速に胸が空になっていくのを感じた。その代わりに神木に話しかけたあの日の空気のような、透明で冷たい気体がひたひたと心を満たしていくのが解る。焦りが頭を強く縛り付け、頬を火照らせるが、頭の芯は氷のように冷たく痛みを発した。
小鳥が囀る声がする。小さくか細い声で囀っている。神社にいた、あのけたたましく啼く鳥とは正反対の声だ。
簾越しに見やると、広い中庭が見えた。自分の部屋から見えた、頼りない細木の桜は見えず、大きく立派な松が何本も植わっている。水溜りは大きな池に変化し、赤い漆塗りの丸い橋が架かっている。その向こうにはここと同じように渡り廊下と簾が下ろされた部屋が見えた。あすこにもまた、女性がいるに違いなかった。
あれが正室の部屋であろうか。
「黒房様は、貴族で在られるのだから。」
燐は、景色を見やったままその場に座り込んだ。
他に側室達が居る事位は、燐にも解っていた。しかし頼る者が今は黒房しか居ない燐にとって、その事実はより不安と焦りを煽るのだった。そうしてまた、黒房に惹かれる故に起こる嫉妬が片隅で火を点した事も解っていたが、燐は見ないようにした。その小さな火が他の側室達に踏み消されるのは目に見えていた。
「燐姫。」
燐が弾けるように振り返ると、黒房が一人だけで立っていた。視線は優しく、燐を包んでいた。燐は込み上げる安堵感を抑え、姿勢を正すと、手をつき頭を下げた。
「顔をお上げ。気分は如何じゃ。」
「…。」
燐は顔を上げない。黒房は不審に思い近寄ると、畳の上に微かな音が落ちた。黒房は気が付き、燐の横に歩み寄ると、座り燐の震える背を撫でてやる。
「心細かったのじゃな。無理もない、ここはお方の全く知らぬ場所じゃ。そう辛う事ばかり考えてはならぬ。ゆっくりで良いのじゃ。」
燐は頷いた。そして顔を上げぬまま言う。
「こちらで、頼る事が出来るのは、貴方様のみにございます…どうか…どうか、私達を助けて下さいませ。」
「解っておる、解っておる。我が何とかしようぞ。だから顔をお上げ、燐姫。」
燐は首を振った。袂を引き寄せ、顔を隠す。
「気が緩んだ故、醜い顔にございます。」
「お前を醜いなどと誰が思おうか。」
燐は思わず、笑みが浮かびそうになり、慌てて口元に力を入れた。
「何を。醜い顔にございます。」
「なれば、こうしよう。」
黒房は悪戯な笑みを浮かべると、燐姫を抱き寄せ、黒く艶やかな髪を宝物に触るように、そっと撫でた。燐はその胸の中で喉を震わせた。嬉しさと、恥ずかしさが一度に胸に押し寄せ、体中を生暖かいものが撫でた。そうして何度も経験したあの眩暈を起こさせる。それは始めて感じる女の感情だった。




