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黒の華  作者: 小梨 真
3/22

3話目

 日が経った。

 雪は半ば融け、咲き誇っていた裏庭の椿たちも、その赤い花弁を塊のまま地面へと惨めに落とし始めていた。鳥が叫ぶように鳴く声や忙しなく羽ばたく音が聞こえる。空気はまだ透明で、頬を切る冷たさだ。

燐は外へ出て、その足で神社の境内にある大きな楠の神木までやって来た。部屋側には小さな庭があるだけだが、婆の部屋側はある程度広く、井戸や、小さな社がある。其の周りをくるりと木々が囲み、其の奥は森へつながる。木々の回りや、建物の周りにはまだ雪が残るものの、砂利が敷き詰められた境内の地面は既に乾いていた。     

歩くと足の下で石が擦れる音がした。袖口から張り込む風が冷たく、燐は袂を引き寄せる。境内の奥まった場所、婆の部屋側に神木は立っている。見上げた樹はその頭を見る事が出来ない程大きく、枝は長く伸び、もうすぐ神社の屋根にかかりそうだった。

燐は片手を樹につけ、ゆっくりと寄り添う。呼吸を繰り返す度、微かな香気が鼻を通して喉へと広がった。僅かな水が神木の体の中を通り抜けていくのが分かる。

「…楠様、私はここを去るなど考えられませぬ。」

 燐は声を潜めて、黙っている神木に話しかけた。

 その神木はいつからここに立っていたのか燐は知らない。長い間、じっと根を張り生きてきたのだろう。その表皮は婆の手よりごつごつして、細かい皹が幾重にも走り、所々割れていた。燐は幼い頃からこの神木に親しみを覚え、もう一人の育て親と慕って、時々話しかけ、寄り添ってみた。無言で立った老木は、それでも見えない何かで自分を包んでくれている気がしたのだった。

「何度も、何度も考えました。」

 眼を閉じ、呼吸を合わせる。

「その度に婆様を想い、ここを離れられぬと思いました。」

 背中にじんと痺れが走り、神木の透明で柔らかな手が回された気がした。

「しかし、忘れられないのでございます。あのお方が。何故でございましょうか、あのような乱暴な行為をされたと言うのに、こんなにも心惹かれるのは。」

 体に感覚が甦り、燐は眉を顰めた。あの日と同じに呼吸が乱れそうになる。

 風が舞い上がり、神木や周りの木々はその葉を揺らす。燐はそれを見上げ、空虚な空間に眼を泳がせた。下から舞い上がる風で、燐の白く丸い額が露わになる。燐はぼんやりと空を見やったまま呟いた。

「また、いらっしゃると…。」

 近くの椿の木から、赤い花が間の抜けた音を発てて落ちた。

「…申しておりましたのに。」

 鳥がまた、けたたましく鳴いた。

 燐は微かな音に気づき、振り返った。

 先程と同じように、石の擦れ合う音が門側の境内から聞こえてくる。それは初め一つであったが、後からだんだんと増えて、終いには酷く煩くなった。

 様子が可笑しい。境内で童たちが何かを追いかけて遊ぶくらいの事はあったが、このように荒々しい足音は初めてだった。しかし直ぐに止んだ。次は全くの静寂が続いた。燐は神木から離れると、建物の影から様子を伺った 何も変わった事などない、いつもの境内の入り口が見えた。

 気の所為だったのだろうか。

 燐は黙ったまま、じっと見つめていると、小さく黒い影がその前をさっと横切っていった。その次の瞬間、大きな音が上がり、神社の中から何かが飛び出してきた。

 其れは婆が大切にしていた小さな経机だった。

 黒い漆喰が塗られ、小さな引き出しが二つ付いたもので、その窓には細かく松の図柄が施されていた。婆は其れをいつも丁寧に磨き上げ、そのお陰でその机はいつもてらてらと瑞々しく輝いていた。其れを磨き上げた時の婆はとても満足そうに顔の皺を寄せ集め、笑っていた。

 それが、今、投げ出され、地面に叩きつけられた事で、脚は乱雑に折れ、見事な漆喰は境内に敷き詰められた石によって幾重にも傷つき、地面を滑った。燐がこの状況を驚いて見ていると、次に脇息が投げ出された。

 燐は何が起こったのか解らず、ただ胸の辺りから段々と体が熱くなるのを感じていた。目の前がぐらりと歪み始める。そうしていると、神社の中から汚らしい男が顔を覗かせた。にたにたと黄色っぽく、並びの悪い歯を覗かせ、無精ひげを生やし、髪は不潔に油っぽい肌にべったりと付いている。続いて違う側からも、似たような男達が数人現れ、その黒く垢がこびりついた手には燐の着物が持たれていた。

 盗賊だと、燐は理解した。

 その途端、熱かった体が頭から水を被ったようにばっと冷たくなるのを感じた。何故こんな場所に。何故この神社に。盗る物など何も無い筈なのに。燐は足が竦み、その場から動けなかった。その疑問だけが痛く頭を廻る。

 さわさわと、神木が枝を揺すった。

「ぎゃああ。」

 高い声が神社の中から響く。震えたその声は、悲しげな、恐怖に引き攣ったもので、燐はそれが婆のものだと気づくのに時間がかかった。

「燐姫様ぁ。」

 甲高く、揺れた二度目の声で、婆の声だと確信すると、燐ははじかれたように、神社に飛び込んだ。中は既に、荒らされており、床は土足で踏みにじられ、泥に塗れていた。調度品は殆どが壊され、その破片が騒然と辺りに散らばっている。其れを見て、燐は恐ろしい夢を見ているのだと思った。

「どうしてこのような事が。」

 燐は呆然と問うたが、その返事はどこからも返っては来ない。

 呼吸が乱れ始めた。

どうしたら、どうしたら。何も解らない。

 その時、隣の部屋から何かが倒れる音がし、廊下に、婆が転がり出てきた。簾が外れ、婆の頭を打った。しかしそれに気付かない程、懸命に彼女は踠いていた。髪を振り乱し、四つん這いになって、こちらに必死で向かおうとしている。燐は震えて場景を見た。呼吸のし過ぎで喉が鳴った。老婆は口を大きく開き動かすが、喉からは乱れ、嗄れた呼吸しか出てこない。燐は震えたまま、その様子を見つめていた。体が竦み上がって動かない。冷たい涙が自然と溢れる。ただ夢だ、夢だと自分に言い聞かせていた。

「いたぞ、あれが燐姫じゃ。」

 振り返ると、先程の男が自分を指差し、擦れた醜い笑い声を発てた。男の声を合図に他の盗賊たちも奥から駆けつけて来る。燐はただ愕然と、こちらに向かって来る男たちを見詰めた。以前婆が言った言葉が激しく頭を揺さぶる。

『この寂しい神社の中で、貴女様が一番の宝でございましょうに。』

 その時だった。神社の入り口から黒房をつれた一行が現れた。

「これは、何事か。」

 黒房は驚き、荒らされた神社を見た。

「お主らは一体何者か。ここで何をしておる。」

盗賊たちは黙ったまま、殺気立った眼で黒房を見つめ、腰に巻きつけてあった、刀をゆっくり抜き出す。黒房は全く動じる様子も見せず、片手を挙げた。

「行け。」

 黒房の声と共に、盗賊たちから死角になっていた門の影から、数人の男が走り出てきた。黒房の護衛の者たちは、身軽な動作で一番手前の盗賊に切りかかった。「ぎゃっ。」という声と共に、盗賊は砂利の上に倒れた。赤い液体がゆっくり周りに広がっていく。まるで、舞を踊るように、護衛達は刀を振るった。護衛の存在に気付かなかった盗賊たちはたちまち青くなり、悔しさに顔を顰めた。

 黒房は、燐の元へ走り、呆然とする燐を支え、促す。

「さぁ、早う。逃げねばならぬ。」

「畜生。」

 盗賊の一人が、大声でそう叫ぶと神社に火を放った。

「さぁ。」

 揺す振られ、我に返った燐は、後ろを振り返った。婆は髪を振り乱し、手足をばたつかせていた。

「燐、燐姫様。なりませぬ。婆が、婆が守ってみせまする故・・・。」 

「婆様。」

「こちらへ、どうぞ…こちらへ。」

 燐が懇願する婆の下に行こうと、黒房の手を振り払った時、婆の後ろから盗賊が現れ、彼女を後ろから切りつけた。

「ぎゃあああ。」

「婆様。」

 鋭く、獣のような唸り声を上げ、仰け反った婆を、「畜生、畜生。」と叫びながらもう一度賊は切りつけた。全ての怒りを無力な彼女にぶつけるように両手で刀を不器用に握って力いっぱい切りつけた。老婆は身を庇って手を振るったが間をぬって肩に刀が喰い込む。赤黒い血が刀と男の顔に付いていた。賊の眼にもまた、涙が溜まっている。

「燐姫様、姫様ぁ。」

 婆は燐も聞いた事がない、鬼気を帯び、しゃがれ、潰れた声を上げた。そうしてなおも手を伸ばし、懸命に空を掴んだ。婆の目には涙が溜まり、熟れ過ぎた柿のように赤黒く潰れた顔の上を流れ出した。

 弾かれ走り寄ろうとした燐を、黒房は抑える。

「ならぬ、お主も切り殺されるぞ。」

「構いませぬ。」

 燐は、涙を流し、婆と同じように空を掴む。婆の顔が涙で濁って上手く見えない。しかし黒房は燐を抱きかかえると、神社から駆け出した。

「お放し下され。私は婆様の元で同じ運命を辿りとうございます。お放し下され。」

「婆様は後から護衛が助ける故、心配なさるな。」

「婆様が苦しんでおられた。それを見捨てては行けませぬ。」

 燐はそう言って顔に両手を当てて泣いた。黒房はそれでも燐を抱きかかえたまま境内の外へと急いだ。

「安心なさるがよい。お方はこの神社で生きてこられた故知らぬのじゃ。都には数え切れぬ程の、医師も僧侶も居られる。婆様の傷もきっと癒えましょうぞ。」 

「お助け下さりませ、どうか、婆様をお助け下さりませ。」

 燐は爪を立て、黒房の背に縋り付く。

先程の婆の姿が頭から離れない。着物がはだけ、胸元が露わになり、血が流れて、長く白い髪と手とを汚していた。懸命に踠き、なおも自分を守ろうとしていた。そんな自分が離れていくのを見て、どんなに辛かっただろうか。どんなに悲しかっただろうか。もしかすると、この男だけでなく、自分をも憎く思ったかもしれない。

「どうすれば。」

 呼吸すると喉が震えた。

「婆様は助かるのでございましょうか。」

 燐は抵抗を諦め、震えながら、黒房に問うた。黒房は走るのを止め、馬の前に燐を下ろす。

「もうここには住めぬ。我が護衛を見たであろう、婆様をお助けする。必ずじゃ。我の屋敷に来ればよい。お方も婆様も幸せになれる。我の言う通りにすれば必ず。宜しいな。」

 言う通りにすれば。

燐はぼんやりと頷く。目の前にいる男は悲しそうな表情を作っているのか嬉しそうに微笑んでいるのか分からない。

 後ろで炎の燃え上がり、木材が焼け落ちる派手な音がする、燐は視界が霞み、意識が濁っていく感覚に陥りながら、婆の笑う姿を思い描いていた。


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