20話目
燃え盛る屋敷、崩れかけた正門の前に立つ燐姫。はらはらと舞う火の粉が燐姫の金刺繍の桜の衣の糸を光らせた。後ろには巨体を揺らす雄夜叉が、黒房を憎々しいとばかりに睨みつけている。時折歯をむき出し、唸り声を上げる。前足をかく度に土煙が上がる。黒房は身体を引き攣らせているばかりだ。
「黒房様、さぁ参りましょうぞ。今度は黒房様が妾のものになる時ぞ」
「このような仕打ち、お主もその獣もすぐに打ち捕られよう。この京の帝は貴族の屋敷がこうして燃えておることをお見逃しになられるお方ではない」
滑稽に声を裏返して黒房は言う。
燐の目は紅く、何をも映してはいないようだった。
ひときわ大きく建物が崩れる音がした。炎はすでに屋敷を全て飲み込んでいる。黒房は腰が抜けたまま、屋敷の方へと這いながら「我の屋敷が」と繰り返し、転がり落ちてくる木片にくすぶる火を自分の袂で懸命に消そうとした。
「心配なさいますな、黒房様。お方の居場所なら妾の傍にございます」
「もう、許してくれ。燐姫」
黒房はとうとう泣きだした。見下ろす燐姫に両手をつき頭を地面にこすりつけた。
「許す。何を申されるか、黒房様」
黒房は燐姫の問いに愕然と顔を上げる。燐姫は無邪気な笑みを浮かべている。
「わたくしはお方様を心より愛しております。どうして貴方様を許すことがありましょう。何も悪くなどございません、ただ貴方様をお父上の屋敷に迎え入れたく、こうしてお方と同じことをしたまで。黒房様もわたくしを愛していたからこそ、ああしてわたくしを奪ったのでございましょう」
黒房は激しい身体の震えに襲われる。呼吸が乱れる。
自分はもうこの物の怪から逃れられないのか。
「黒房様、わたくしを、いつものように愛でて下され」
燐姫がゆっくりと黒房に近づく。黒房が贈ったあの紅を塗った小さな口の間から鋭い牙が見え隠れする。瞳はどんどんと燐姫の目を埋め尽くし、眼球全てが紅くぎらぎらと輝く。
「さぁ、早う、早うわたくしを愛でて下さいませ」
燐姫が黒房を抱きしめようとした刹那、黒房は悲鳴を上げて燐姫を力任せに突き飛ばしていた。
想像に反して、燐姫は弱々しくその場に倒れ込み、袂で顔を覆って肩を震わせた。その姿は狂気を帯びてはおらず、むしろはかなげに美しい。
「お可哀そうな、黒房様。わたくしは貴方様のお陰でお父上に会うことも、自分が何者であるかも知り得たと言うのに。わたくしは心から黒房様をお慕い申し上げておりましたのに。このような拒絶、耐えられませぬ」
燐姫は袂をより顔に押し当てて、嗚咽を交えて言う。まるで小鳥が囀っているかのような小さく愛らしい声だ。
黒房は燐姫の狂気と色気に困惑しながらも「消えてくれ」とか細い声で繰り返した。
「腐食するお方様は、共に孤独と失望を感じ、やがて朽ちてゆく苦しみを選ばれるか」
燐姫は顔を隠したまま黒房に問う。黒房はまた「消えてくれ」と呟いた。ただ一刻も早くこの物の怪から逃れたい一心だった。
妻は自害し、側近も兵も焼き殺され、自分の屋敷は炎にまかれ崩れ落ちた。これ以上何を孤独に思うか、失望を感じるか、やがて朽ちて死ぬのは誰もが同じ。命を捕られぬのならばそれでいい。自分にはまだ、後ろ立てがある。叔父の同情も買うことは出来よう、大事となれば帝すら自分をかくまってくれるかもしれない。
瞬時のうちに黒房の心を巡った思惑が、まるで燐姫に伝わったようだった。素早く袂をおろし、獣のような速さで「おのれ、恨めし」と声を上げて燐姫が黒房の左腕に噛みついた。
黒房は余りの激痛に倒れ込んだ。じわりと意識が遠のく。揺れる視界に燐姫を気遣うように頭を寄せる夜叉の鬣に顔を埋め肩を震わす燐の姿を見た。
「ただわたくしめは貴方様と婆様と静かに暮しとうござりました」
燐の声と共に黒房の視界には闇が降りて行った。




