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黒の華  作者: 小梨 真
2/22

2話目

 数日が過ぎたころ、遂に雪が降り出した。牡丹雪はくるくると回り、神社の周りを白くしていく。部屋に置かれた黒い陶器の火鉢の火は蛍の光の様に柔らかく点滅を繰り返している。燐は琴を弾いていた手を止め、その赤くなった指先を火鉢に翳した。

簾越しに雪が舞っているのが黒く見える。こう寒くなってはこの神社にやってくる人も滅多とない。それにも関わらず、この数日と言うもの燐は、外は愚か部屋からも殆ど出して貰えなかった。参拝者が来れば外の格子戸すら締め切られた。燐は婆の心配が度を過ぎているとは感じたが、燐にとってはそう苦な事でもなく、余り気にとめる事でも無かった。それよりも婆が見せるあの表情の方が余程、燐にとって辛いものであったし、華やかな都も街も知らない燐には、この部屋には色んなものがある、外へ出る必要もないだろうと思えたのである。

日も大分傾き、そろそろ婆は夜の勤行を行う時間だった。燐は其れをぼんやり感じながら、新しい香を焚く準備を始めた。火桶の横の手箱から香を取り出す。それは婆が都へ祈祷を行いに行った際、その屋敷の貴族から礼として貰ったものであった。薄い桃色で、光の加減によっては金色にてらてらと光る珍しい、娑伝と言う布で包まれていて、その光沢のある布を丁寧に取ると削られた木の片が幾つか現れる。仄かに白檀の香りが香った。

香炉の中に火を点け手箱から赤い糸で括った扇子を取り出し仰ぐと、より強くその香りは広まった。

 燐は目を閉じ、その香が焚きしめられた貴族の屋敷を思い浮かべてみた。女達の喉を震わす笑い声、色とりどりの艶やかな十二単。立派な几帳や色々な調度品と、それに見合った人達。流れる音楽は柔らかで、痛々しい音は一つもかき鳴らされる事はない。その甘くぼんやりと霞む煙の中に身を置き、他の女子と同じように眼を細めて笑う自分。

そうしてその先で一緒になって笑っている人。あれは…。

燐は目を開いて残像を振り払おうと首を振った。何故目の前に彼の姿が映し出されたのか。どうしてなのか分からず、戸惑った。自然と思い出されたその事に、震えた。

恐ろしい、恐ろしいと自分に呟く。

手にしていた扇子を見つめ、合わさっている木板の数を数えながら、別の事を考える事に努めた。だが、やがて落ち着きを取り戻し、顔を上げた燐の心臓がまたもや早くなった。眼を見開き、その先を見つめる。

手が震え、その振動が気持ち悪かった。

先程の残像は消えるどころかはっきりと、燐の目の前に立っていたのである。

燐は驚きの余り、声が出なかった。此方を微笑み見ているあの男を見つめたきり体が動かなかった。

其の男は、今日は薄色と白とを併せた袍を着ていた。白い肌とその着物は良く似合い、微笑んだ唇を際立たせている。 

燐は眩暈を感じる。あの日感じた感覚がふつふつと湯が沸くように甦ってくる。また手足が痺れたように小刻みに震えた。其れを避ける為に目を伏せ、着物の袖と持っていた扇で顔を隠して、之が幻覚であるように、消えてしまうようにと祈った。しかし、幻覚はその祈りを裏切り、声を掛けた。        

「此処まで来るのは容易かった。本にあの婆様と二人きりで暮らしておいでなのじゃな。」

 燐は黙ったまま、其方を見ないようにしていた。震えは一向に治まらない。床が着物で擦れる音がする。男が目の前に座ったようだった。

「我の名は黒房。左京の都の一角に住んでおる貴族に御座いまする。」

「…。」

痺れの所為で、上手く扇が持てない。

「良い、香の香りじゃ。之はどちらの。」

「…。」

「お方が琴を弾いておられたのか。美しい音色であったな。」

「…。」

 燐は同じ体制のまま動かなかった。息を潜め、婆がこの部屋に来るのを恐れた。

彼を見た婆は自分を疑うかもしれない。その時はどうしたらよいのだろう。懸命に踠いたが、やはりどうしてよいのか分からなかった。

黒房は一歩身を乗り出し、言う。

「お方の名前は。」

「…。」

 雪は止んだようだった。簾越しには小柴垣と雪を被った細木の枝が見えるだけだ。

「あの日の事を覚えておいでか。我が病の祈祷をしてもらいに此方に訪ねた日じゃ。我はあの日の事が忘れられず、此方にもう一度詣でたのじゃ。」

 燐は黒房の呟く声を心地よく聞いた。初めて男に口説かれる。燐が陶酔した様な心地でいると、急に黒房は燐の手を取った。持ち損ねた扇が燐の手から落ちる。驚いて黒房を見ると、すぐ近くに黒房の顔が迫っていた。その目はじっと燐を見据え、其れが燐の後ろ頭をより強く痺れさせる。体中の血が一斉に駆け巡りだしたように全身が疼く。

 震える唇からやっとの事で嗄れた声を絞り出した。

「御放し、下され。」

「我の元へ、来て下さらぬか。」

 燐は反射的に首を振った。手がまた、汗ばむ。

「何を、申されるか。その様な事が出来るとお思いなのですか。」

「なぜ故。」

 燐は目を何度も瞬かせた。都など行った事もない燐にとってこの男の元へ嫁ぐなどとは到底考えられなかった。このように美しい黒房の身分に自分が釣り合うとは思えない。身を寄せて、生きていけるとは思えない。

そうして、この恐怖。

婆のあの顔が目の前に浮かんだ。影に身を潜め此方を見ていた、あの獣のような目。あれは燐を縛り付ける。何処にも行くなと強い力で引き寄せる。長い間共に暮らしてきた彼女を、一人にする事は出来なかった。

「あの、婆様じゃな。」

 黒房の声が低く響いた。

「あの、婆様がお方をお引き止めなのじゃな。」

「違いまする。」

 燐は強く否定して、黒房の手を振り払った。

「お帰り下さいませ、私は何処へも行きませぬ。此処で生まれ此処で死ぬだけに御座います。」

「しかし。」

「このような御無体、私には我慢出来ませぬ。都の男子はまず、歌を寄越すと聞いております。このように出を疑われるような行為は御慎み下さりませ。」

 燐は一気にそう言って袖で顔を隠した。気持ちが高ぶり、涙が流れてきたのだ。黒房はそれでも引き下がろうとはしない。もう一度手をさし伸ばし、燐に触れようとゆっくり、近づく。警戒する猫を捕まえようと必死だった。

「出した。何度もそちらに歌を寄越させたのじゃ。しかし取り合ってもらえず。」

 婆だと、燐は息を呑んだ。彼女が何故、自分を閉じ込めていたのか、燐は漸く理解した。黒房は自分の誠意を認めて貰おうと続ける。

「婆様であろう。お取次ぎ願い、快く受け取って下さった筈だと遣いの者から聞いていた。しかし一向に歌が返って来ぬ。あの婆様が、」

「お止め下さりませ。」

 燐は叫んだ。胸に浮かぶ、不安な想像を追い払うように首を振り続けた。そうして小さく呟く。

「…致し方御座いません。其れは私の…。」

 涙が頬をなぞった。

「…気持ちでもあるのですから。」

 喉奥から込み上げる熱いものを吐き出すように大きな息を吐いた。其の息は波のようにうねり、燐の喉を震わせた。黒房は苛立ったような、子供染みた高い声を上げた。

「しかし、お考え下され。なぜ故に我が無礼を承知でこのような行為をしたのか。」

 そうして燐の腕を無理に掴むと、自分の方へ引き寄せようとする。

「何を。」

燐は精一杯の力で其れに抵抗するが、激しく混乱する心の何処かで、その胸に寄り添ってみたいと思う想いが、頭の奥底で回っているのを見た。燐は抵抗しながらその気持ちが信じがたく、一瞬気が緩んでしまった。黒房は其れを見逃さず、もう一度力任せに燐を引き寄せた。其れが黒房の力によってなのか自分の意思でなのか解らないまま、燐はその胸に身を任せた。

「お方を迎え入れたいのじゃ。都には何でもあるぞ。香も紅も、何でも。」

「お止め下され。どうか、お止め下され。」

 燐は泣き声でそう懇願した。口の中はからからに渇いていた。胸の中で柔らかい固体が蠢いている。黒房の胸は厚く、婆のものとはまるで違った。頭では分かっていても、吸い寄せられるようにその胸に凭れ掛かってしまう。其れを恥じ、燐は頬を赤く染めた。黒房は泣きそうな笑い顔を見せた。

「どうか、我の元へ。」

「此方で何を。」

 黒房の声に混ざって低い低い嗄れた声が聞こえた。二人が振り返ると、何時の間にか部屋の隅に腰を曲げ、丸くなった婆が此方に横顔を向け座っている。あの時と同じ横目の視線を此方に落としていた。闇の中で獲物を狙う狼のような容赦のない視線。燐は直ぐに婆に駆け寄り、身を寄せ、肩を震わせた。婆は其れを枯れ枝のような指で優しく受け止め、ゆっくりと黒房を見つめた。 

 なんとも冷たく、鋭く刺さる眼だった。

憎しみや嫉妬や憎悪や存在する負の気を一点に集めたような視線だった。さすがに黒房もぐっと押黙ってその視線を受け止めた。

「余り、ご無礼な行為をなさいまするな、黒房様。お方は病み上がりの身、また何時物の怪が憑くとも限りませぬぞ。」

 婆は見せ付けるように鈍い動作で燐の震える背中を撫で続ける。ささくれた皮と布が擦れ、不快な音がする。

「しかし、お方様が文を取り次いで下さらなかった故に、」

「馬は門の前に掛けてありまする。雪が酷うなる前に帰られた方が宜しゅう御座いましょう。日も落ちました故、お気をつけてお帰り下さいませ。」

 黒房が言い終わらないうちに、婆ははっきりとした声でそう言って見せた。

暫く、布と婆のささくれた手が擦れる不愉快な音だけが部屋に響いていたが、やがて黒房は渋々立ち上がった。婆の威圧感に勝つ事は出来ないと理解したのだ。出入り口の前で一度手を尽き、頭を下げる。そうして口の端を歪ませ、幼い女子のように震えて此方を見た燐に笑いかけた。

「では、また参上致しましょう。お二方のそのお心が変わるまで、我は此方に赴きとう御座います。」

 黒房はそう言って部屋を後にした。床の軋む音は遠のき、部屋は燐達の呼吸音が聞こえそうな位に静まっていた。暗い部屋にじりと音を発て、炭を吐き出しながら蝋燭の明かりが伸び縮みしている。やがて馬の鳴き声が聞こえ、蹄の音が遠ざかっていった。

「婆様、私は。」

 燐は婆に責められる事を恐れ、口を開いた。婆はその不安気な声を優しく受け止め、ゆっくりと頷く。燐の背を撫で、先程とは全く別人のように甘い声で囁いた。

「分かっておりまする。お方は何も、悪くは御座いません。分かりましたでしょう。燐姫様、御身の美しさはやはり知られるべきではないのです。此処を出られてはこのような事は一度二度では済みませぬぞ。」

 婆はゆっくりと、混乱した燐にも分かるように続ける。

「婆と二人で、暮らしましょう。此処は静かで、木々も美しく、ゆったりと時間も流れておりまする。ゆっくりと、ゆっくりと二人で生きましょう。」

 燐は頷く。何度も頷く。

「…私は。」

 あのお方に惹かれたので御座います。

 燐はどうしても其れが言えなかった。自分の頭に声が響く。 

乱暴で強引な力だった。しかしあの感触。信じ難い程優しく広く、しっかりとした懐だった。私は其れに惹かれていたのだ。強く、自分で制御も出来ない程に。

婆の胸で、呼吸を整えながら、ぼうっと辺りを見回す。開かれた扇、出されたままの琴。そこについさっきの自分と黒房が浮かぶ。抵抗する自分を力ずくで抱きすくめようとする黒房。また微かに胸の奥が痙攣し、鈴の音のような音を発したのを聴いた。眼を閉じ、婆の呟く簡単な勤行に耳を傾ける。また目頭が熱くなり、袂を寄せた。長い長い間、二人はそうして寄り添っていた。雪がまたちらつき始める。

燐はやがてこの部屋に香を焚き染めていた事を思い出した。


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