18話目
今回はグロテスクな表現が少なからずありますので、ご注意ください。
「此方におりますよ、燈江様」
燈江の耳元でぼそりと声がする。燈江は反射的に振り返るが誰もいない。秘色の声だけが聞こえる。燈江は震えながら「戻せ、戻せ。お主の仕業ぞ」と叫んだ。
空に向かって叫び続ける燈江を見て、楓は祟りが起きたのだと息をのんだ。その場から逃げたしたくても腰が抜けて立つことも出来ない。何が起きているのかは理解できなかった。秘色が燈江に施した化粧は確かに美しく、そしてそれは今もそうだ。髪を振り乱す燈江だが、その様子さえ狂気を持って舞っているがごとく映る。だが、燈江は自分が醜いと繰り返している。
燈江は秘色の笑い声がどんどん皺枯れてて行くのを聞いた。それが媼のものだと分かった瞬間、これが燐姫の婆だと悟った。
「真の顔をご覧になってどうかえ。それがお方の御心の顔じゃ。よう似おうておろう」
「ほざくな、婆め。こんな顔でこの先妾に生きろと申すか。自害する方がましじゃ、今すぐ戻せ」
燈江の声を聞いて、傍つきの女房や、兵士たちまでもがやってきた。口々に「どうなされました、燈江様」「ご乱心あそばせまするな」と暴れる燈江を抑えに入るが、燈江の力は兵士に勝るほどだ。その声に混じって燈江にははっきりと婆の声が聞こえる。
「お方が自害しようとも、決して死ぬことは出来ませぬ。無限の闇に堕ち、もがき苦しむのみでございます。どうぞ、そのお顔をお方自身が直視され生きていくのが一番かと」
「ぬかせぇ」
燈江は婆の声をかき消すほどの、声で叫ぶ。枯れた喉から出た声は悲鳴に近い。女房たちは袂で口を覆い、燈江の声に震えをなす。燈江は涙でぬれた目を女房たちに向ける。女たちは燈江の怒りが自分たちに向くことを恐れて、袂をずっと上げて顔すら覆う。燈江はそれを自分の姿の醜さに目も当てられないのだと思う。
燈江は震えながら楓に近づく。足がもつれ、うまく歩くことが出来ない。着物が水を吸ったようにどんどんと重くなるように感じる。
「楓、楓。助けてたもう、妾は、こんな醜い姿で生きることなど出来ぬ。助け」
言葉の途中で燈江は滑稽なまでに転げ、そのまま伏して泣く。止まらない涙を拭うたび自分の手に膿に混じった赤黒い皮膚が落ちこぼれてくる。手の水泡は破れ、黄色い体液と共に悪臭が漂った。
「誰でもよい、妾を助けてたもう」と燈江は頭を抱え大きく揺さぶる。ばさりと音がする。燈江は瞬間身体が硬直した。ぎこちなく床を見た。思った通り黒い髪が束で落ちている。頭を抱えていた手をゆっくり下ろす。その間にも自分の視界にはらはらと舞う髪が見えた。
燈江は這いつくばって、床に落とした鏡を覗く。
映るのは、自分でも気を失ってしまいそうなほど醜悪な姿だ。美しい自分など微塵も残っていない。もはや女子か、まして人かも分からない姿だった。
燈江は悲鳴をあげて、泣きじゃくっていたが、弾かれるように走り、唐櫃から短刀を取り出した。
「何をなさいます、燈江様」
楓が叫ぶ。兵士が燈江をいよいよ力づくで抑え込もうとした。が、それより素早く燈江は短刀を力任せに腹に突き刺した。
周りで悲鳴が上がる。女房たちは次々に倒れる。楓は冷え切った唇を震わせ、自分の境遇も、この貴族の生活も全てが崩れていくのを感じていた。
燈江は痛みにのたうちまわる。
だがこれで死ねると思った。醜い姿をこれ以上は晒したくない。握った短刀を見下ろした。血が出ない。腹にめり込む短刀の鋭い痛みは感じるのに。何故だ。婆が言った通り、自分は死ぬことも出来ないのか。
燈江は痛みを堪え、一文字に腹を切り裂いた。余りの痛みに叫ぶ。これで、と見るが、抜かれた短刀にも血も肉も付いていない。ただ、着物が破れただけだ。
兵士たちはもう、燈江を抑えることもなかった。
その場に居た全ての人間が燈江に恐怖していた。
半分白目をむいて、ふらふらと立ち上がり、「死なぬ、死なぬ」と繰り返し、力なく短刀で燈江は自身の身体を切りつけている。一文字に切り裂いた腹から、桃色と青が混ざったような色をした内蔵が見えている。鮮血が床を汚し、部屋が生臭いにおいに包まれる。兵士も女房も嘔吐し、その場を逃げ去る。
「妾も、連れて行ってたもれ」と腰を抜かしたままの楓は叫んだが、誰も振り返りもしなかった。
「か、え、で」
楓は振り返る。髪を振り乱して、血だらけの燈江が自分の前にいつの間にか立っている。血の匂いが強さを増し、楓は耐えきれず、嘔吐を繰り返した。楓に覆いかぶさるように燈江は倒れ込み、こと切れた。楓は茫然としていたが、ふいに燈江を抱きしめた。「生暖かい」と呟くと同時に、笑いに肩を震わせた。「死んだ、燈江様が自ら死によった。ひひひ」と声を張り上げて笑い続けた。
燈江の見開かれた瞳には深い闇が映っていた。