第15話目
侍女は追っては来なかった。だがその方が都合がよかった。侍女が丁寧に梳かしつけた髪は乱れ、着物は着崩れ、肩が上下するほどに息が上がっている。燐は女子にあるまじき恰好で北の屋敷の前に立っていた。
「婆様」
燐は声を張り上げて、扉を開けた。
「婆様」
二度目は震えて、殆ど声にならなかった。
そこには引きちぎられた注連縄と行灯が転がっていた。開け放した扉から差し込む光に、無数の塵が舞い上がっているのが映されている。
人の気配などなく、静まり返った小さな部屋に燐の嗚咽が響いた。
土間の前まで行き、敷かれた二畳ばかりの畳の上に座る。燈江が言った通りにそこに人間が、ましてや傷を負った者が寝かされていた形跡などなかった。
それが分かると燐は声を張り上げて泣いた。頭を畳に擦りつけ、丸まった身体を上下に揺さぶる。布にかぶせられていたであろう着物を手繰り寄せ、引きちぎれるほどの力で握りしめて声を張り上げた。
「私は、」
燐は呼吸も出来ぬほど荒れた息の中呟く。
「お方様を信じておりましたのに」
燐は天井を仰ぎ、声を張り上げる。
「婆様、婆様。お許し下さりませ。私は何と浅はかな、醜い女子か。恨めしい、あの男が恨めしゅうて気が狂いそうでございます」
「人間がいかに物の怪よりも恐ろしいか分かったでございましょう」
燐は顔を上げる。部屋の奥隅に黒く溜まった闇が見えた。目を凝らすとその闇はどんどんと一か所に集まり、やがて婆にかわった。不自然にぎらぎらと光る目を向けている。燐は這いつくばるように婆に近寄りその膝にすがりついた。
「婆様、お許し下さりませ。どうか」
「御労しや、燐姫様。婆は貴女をどうしてか、憎めましょう」
婆が燐に発する声は、いつもと変わらず艶めかしくかさついて低い。
燐は安堵で眠気すら覚える。
「燐姫様、昔のお話をいたしましょう。私めがまだ人間でいられた頃でございます。祈祷師として宮につかえていた私の元に、一頭の紅い雄夜叉が現れました。とても大きく、威厳をたたえるかのようなたてがみとその赤く光る目に私は恥ずかしながら心惹かれたのでございます。沢山の僧侶と巫女がその夜叉に喰われました。ですが私はこのお方になら喰われるのも良いと思えたのです」
燐の背を摩りながら婆は続ける。
「自ら身を捧げようとした私を雄夜叉は殺しはしませんでした。その代わり伴侶となり人に化けたあのお方と二人、目につかないよう神社で暮らしました。そうして産まれたのが貴女様です。人と夜叉では時間が違いすぎます、私だけが年老いていった」
ゆっくりと言葉を紡ぎながら火照った自分の背を摩る婆の手の冷たさを心地よく思う。その中で夢か現か分からぬ場所で見た、あの朱いたてがみの雄夜叉を思い出していた。
「人間との子供など、夜叉の国では禁忌の沙汰。貴女様の匂いを嗅ぎつけた多くの夜叉が私と貴女を喰い殺しに集まりました。ですが父様は自らの命を絶ち、貴女様が人目につかぬように、この神社より外に決して出ないこと約束にして、貴女様のお命を守られたのです」
婆はその状況を思い出しているのか、眉間に皺をよせ天井を仰いだ。そして静かに目を瞑る。
「あのお方様が、それでもこの身を案じてあの大木の中で見守ってくださっていると、ようやっと気付いたのはあの日、婆が殺された時でございました」
「婆様は」
燐姫は落ち着いた呼吸を繰り返し、婆の枯れ枝のようなささくれた手を真っ白くふっくらとしたその両手で包む。
「死んでしまわれたのか」
「あの日、貴女様を連れ去られ、無念を抱きながら」
燐は苦しさと後悔に胸を押し潰される痛みを感じ、目を強く瞑った。
「ありとあらゆる憎悪と羞恥を抱え死に絶えた。この老いぼれはそれでもこうして貴女様のお傍に。執念とは怖いものでござまするな、怨霊鬼とは私のことでございましょう」
「私は、夜叉の子でござますか」
婆は涙でぬれた顔をあげた燐姫に笑顔を向け、何度も頷いた。燐姫は泣き顔とも笑い顔ともとれる歪んだ顔を婆に向けたまま、婆の手を握る両手に力を込めた。震えていた。
「婆様の、怨霊鬼の子にございまするか」
婆は低い笑い声を発てた。燐も目を細めて喉を震わせ笑った。
途端、光を映さない真っ黒な燐姫の瞳は、獣のように白目をも覆うほどに大きく広がった。
燐姫は婆の手を頬に当てて、うっとりとした表情を浮かべる。
「ああ、これで私は、あのお方のものではなく、あのお方を私のものに、出来るのでございますね」
燐の艶めかしい声が響く。
扉から差し込む光が部屋の隅の二人を照らし、壁に大きな影を作った。見つめ合う影の一方の頭部から鋭く尖ったものが二本伸びていく。