12話目
空は澄み渡り、少し強い日差しが庭の湖面を照らしている。鳥の声はせず、遠くで屋敷の者たちの声が聞こえるくらいだ。静かな初夏の気配がある。
燈江の屋敷から琴の音が聞こえる。旋律は軽やかに舞っているようだった。
黒房が訪れた日以来、燈江は機嫌が良かった。楓もまたそれに安堵し、そして満足していた。時々教養をひけらかす者たちを燈江となじり、目配せして遊ぶ。燈江と自分の絆が深まるほど、自分の地位が揺るぎないものと思うたび、快感に楓は高揚さえ感じる。あとは燈江の元を訪れた貴族の男をものにしてしまえば、自分はもう何もしなくてもいい。
燈江は琴の手を止めた。楓は我に返って燈江を見詰めた。燈江は楓の心を見透かしたように目を細めて唇を持ち上げていた。笑いでときどき朱芋虫のような唇がうごめく。
「ずいぶんと機嫌が良いようじゃな、楓や」
「燈江様がまた心安らかに琴を弾かれることが嬉しくない者がいるでしょうか」
楓はコロコロと笑い声を発てる。
「黒房様は物忌からもうすぐ帰ってこられる。あの日のことを話してやろうか、楓。何か物の怪を見た夜、子供のように我にすがってきた黒房様の可愛らしいことと言ったら」
楓は何度も聞いたその話に眉ひとつ顰めずに相槌を打つ。
「聞くと、北の屋敷で物の怪を見たそうでございますね」
「北の屋敷」
今まで上機嫌に話していた燈江は笑みを消して楓を見詰めた。気持ちを隠してしまうほど整った顔と鋭い眼は能面のようだ。
楓は心臓が高鳴るのを抑える。毎回新たな話題を出すたびに手に汗を握る。これで燈江の機嫌を損ねれれば、どんな仕打ちがあるかも知らん。
楓はそんな感情を表に出さぬよう、目を細め微笑を浮かべた。先日、燐姫の屋敷からこちらに頻繁に出入りする侍女に包みを渡し聞いた話題を話す。
「燈江様は燐姫様の婆様をご存知でございましょうか」
「婆とな」
燈江は肘掛に凭れ、さして興味もなさそうに琴爪を外した。
「何でも盗賊に切られてお命が危ういとか。都で祈祷を行って回復を祈る代わりに、燐姫様はこの屋敷に御住みになる事になったそうで御座います」
「なんと」
燈江は顔を上げた。
「して婆は今いずこに居られるのじゃ」
燈江は身を乗り出した。楓は燈江の関心が自分から反れた事に安心して、話を続けた。持っていた扇で香の匂いを嗅ぐ。
「それが、北の館に御座います。婆様は祈祷師故、物の怪がなかなか去らず、未だに北の屋敷には誰も近づくことを許されてはおりませぬ」
「燐姫もか」
「そのように御座いまする」
燈江は黙って、琴爪を拾い上げると弄り始めた。楓はゆっくりと扇を仰ぎ続ける。
「燐姫は毎日のように婆様の容態を気になさっておいでの様子、黒房様も手を焼いておられる。北の館で物の怪にあったのなら、今ではさぞ燐姫様が恐ろしいでしょうに。案ずることはありませぬ、何があってもお方様が一番黒房様にとっては大事なお方。一時の戯れと思い遊ばしなさいませ」
楓が笑っていると、燈江は思い立ったようにすくと立ち上がった。
「どうなされましたか」
楓が驚いて見上げると、燈江は眼を細めて口の端を持ち上げた。
「見に参るのじゃ」
「どこに参られると」
楓は困惑して、立ち上がった。燈江の笑みに意味を悟った楓の顔からは血の気が引いていく。
「もしや北の屋敷に参られると」
「他にどこがあると」
「お止めくださりませ。こちらにも物の怪がやってくるやも知れませぬぞ」
楓は入り口に回りこんで燈江の行く手を塞いだが、燈江は強い視線を楓に向けて言った。
「そこを退くのじゃ、楓」
袖で楓を払いのけ、燈江は廊下に出た。振り向きもせず歩く燈江の後姿は楓に有無を言わせなかった。楓は震える唇を強くかみ締めて燈江の後を仕方なく追った。