11話目
「燐姫様、燐姫様」
燐は侍女の言葉に振り返る。侍女は目じりを下げ、目をしばたたいていた。
「どうされたか」
「燐姫様こそどうされました、ずっと庭を眺めてばかりにございまする。いつもならば書やお琴の一つもなされておる時分ですぞ」
燐姫は「ああ」と気のない返事をする。
何も変わらない座敷と、庭を交互に見つめ、燐は深くため息をついた。
「黒房様が戻られるのはいつにございましょうか」
侍女は脇息に凭れる燐の手をそっととる。
「こんなに冷たく。燐姫様のお身体がすぐれぬとあらば、黒房様がお戻りになったとき、わたくしめが叱られてしまいます」
燐は侍女の言葉にようやく縁側のほうから身を移し、御座の中央に座りなおした。侍女は燐に袿を羽織らせると、簾を下げ、香を焚く。
燐は香を扇で仰ぎ、「これは」と呟く。
初めて黒房が自分の前に現れた時に焚き締めていたものと同じ香りだ。婆が都の土産にと買ってきてくれたものだ。
途端に燐の胸に婆と黒房への懐かしさが渦を巻くようにこみ上げ、涙となって流れた。袂で顔を覆い、嗚咽に肩を震わせる。
驚いた侍女は燐の肩を抱きしめ、背をさする。
「もうしばらくの間でございます。物忌の時期を過ぎれば黒房様はこちらにお顔を見せて下さります」
「婆様、婆様にお会いしたい」
「なりませぬ。ご辛抱下さりませ。黒房様に叱られてしまいますぞ」
「わたくし、昨日可笑しな夢を。夜叉がわたくしを奪うでもなく、ただもうすぐだと申すのです」
侍女は涙で頬を濡らした燐を見詰める。眉間に深く皺を寄せていた。
「もうすぐとは、何なのか。わたくしはずっと考えているのでございます」
ひときわ大きな声で侍女が遮る。
「夢にございます。その様に気に病んでおられますと、本当に夜叉がお方様の前に現れ捕って喰われるやもしれません。どうか、どうかかように恐ろしげなお話はおやめ下さりませ」
侍女は心底怯えたように、燐に覆いかぶさり身体を震わせていた。燐の身体に回した白くふっくらとした侍女の手に自分の手を重ねて燐は何度も頷く。
「婆様にお会いして、お聞きしたいことが沢山ございますのに」
燐は目を伏せ呟いた後、焚き閉められた香の中で動くこともなく、ぼんやりと一点を見詰めていた。
「燐姫様」
侍女の不安げな声で、我に返った燐は袂で口を隠し小さな笑い声を発てた。
「余りに淋しく、不安な思いがこのような夢を見せたのやもしれませぬ。いらぬ心配をさせてしまいましたね、よく考えればまこと、可笑しな話じゃ」
「いいえ、お気持ちは十分にお察しいたしております」
紅をさした小さな口をきゅっと結び、真剣なまなざしでこちらを見る侍女を燐は愛おしいと思う。そしてこれから自分がすることを思うと、心が痛んだ。
「いまから書をしたためようかと思いますゆえ、しばしの間一人に」
侍女は何度も何か言いかけ、口をつぐみ、結局揺らぐ目を燐に向ける。
燐は口の端に微笑みを含ませ、ゆっくりと頷いた。