10話目
燐姫が眠りから覚めたのは、自分を見つめる視線を感じたからだった。鋭く冷たいものではなく、柔らかく優しい視線だ。それが初めは黒房だと思った燐姫は視線を感じる方へ身を起して語りかけた。
「黒房様」
返事はない。闇で沈む簾の向こうに人影は見える。そしてこちらをじっと見つめている気配も伝わってくる。影の大きさからそれが男だということは分かった。
燐姫は少し戸惑った。側室である自分の屋敷に黒房以外の男が来ると言うことは物見の輩か黒房よりも階級が上の貴族の夜這いと考えられる。
だが、燐姫にはそのどちらとも考えられなかった。
鼓動が高鳴ることも、恐怖で手が冷たく身が動かない感覚もない。むしろ懐かしく、安堵してまた眠気を覚えるほどだ。
「燐や、美しゅうなられた」
沈黙を破り、闇の男が低い声で言う。
「どなたか」
男は簾を開けることもなく、膝に両手をついた姿勢でひたすら燐姫を見詰めているようだった。
燐姫は戸惑う。
自分から簾を開ける訳にもいかない。かと言って誰かを呼ぶという気持ちにもなれなかった。
「もうすぐぞ、もうすぐぞ」
男は燐をあやすような口調でそう呟く。
いよいよ気が気ではなくなった燐姫は身を乗り出し、男を簾越しから確かめようとした。だが、男の顔は靄がかかったように不思議と見えない。身なりはしっかりと見える。だが萌えるような蘇芳の赤が目立つ松重の直衣には貴族のような装飾もないようだった。
「お方様は黒房様のお知り合いか」
燐姫がそう尋ねた瞬間、男はまるで狐のように軽やかに飛び上がり、宙で一回転したかと思うと、その姿を獅子のように大きな獣に変えた。燐姫は身を引いて、小さく悲鳴を上げた。
震える手で、近くの行灯を持ち、その姿を照らす。
「わたくしを喰ろうつもりでございまするか。そうであれば、しばしお待ちくだされ。わたくしは婆様の姿を一目見てから死にとうございます」
声が滑稽に震える。火に照らされる夜叉は紅いたてがみを揺らし吐いた息はこおっと音を発てて白く舞う。
「吾の呪縛は火で解けた。黒房のお陰と言うておくぞ。こうしてお前の元に現れ言葉を交わすことができる。吾が誰か分からぬのならそれでもよい」
「何を申されるか」
燐は行燈の灯をより前へ突き出す。
夜叉の話すことが全く理解出来ない。
紅夜叉は自分を知っているようだ、だが燐は知る由もない。婆と二人静かにあの神社で暮らしてきた。夜叉の姿など見たこともない。婆以外の者と話した記憶もない。
自分には祈祷師の血が流れると婆は言っていた。婆のように祈祷が出来れば、あるいはと口惜しく、燐は唇を噛みしめ涙を浮かべる。紅夜叉は燐の想いを見透かしたようにしわがれた笑いを洩らす。
「喰ろうたりはせぬ。婆は今までお前をよう守った。人間に巣食う物の怪など我々にはとるに足らぬ存在じゃ。婆の祈祷が何者か、これでお主も分かるであろう」
揺れる視界に夜叉を見る。婆は決して祈祷を自分に教えることも、祈祷の間それを垣間見せることもなかった。燐も祈祷が何かこの雄夜叉が語るまで、考えたことがなかった。
夜叉が言う「我々にはとるに足らない」と。
行灯を持った手が汗ばみ、気を緩めれば落としてしまいそうになる。火を見詰め、黒房が自分を口説きに来た時の、闇に沈み突き刺さる獣のような婆の視線を思い出した。
「もしや、婆様は」
そんな莫迦な話はと思ったが、何故か燐にはそれが事実だと思えてしまう。
夜叉の言うことをもう一度質そうと、燐が意を決して視線の先を簾に戻した時には、紅夜叉の姿はなかった。
燐はほうける。開いた口を閉ざすこともなく、力が抜けた手で行灯を立て直た。視線は簾から逸らすことは出来なかった。
風もない部屋の簾がゆらゆらと揺れている。