1話目
長編の為連載に致します。お付き合いいただけましたら、幸いです。
しとしとと冷たく細い雨が静かに降る夜だった。遠くから見ると其れは何万本と垂れ下がった蜘蛛の糸のようにも見える。其れが覆う向こう側には小さな神社が見え、中から小さく琴の音が聴こえてくる。
闇の中に音は響き、雨の線を微かに震わせる。音色は甘く、優しく、時に狂気を持って真っ暗な空へ溶け込み消えていく。
神社の奥まった部屋では小さな明かりが揺れ、其の中で女子が唐模様の装飾が施された琴を直向に弾いている。長い髪は蝋の光を反射して仄かに光を帯び、その間から覗く丸い額や華奢な手は白い。長い睫毛が目立つ目は切れ上がって何度も瞬かれた。
音が奏でられる度に空気が振動し、蝋燭の炎はゆらりと揺れた。
音が止む。
すると雨音が際立って部屋の中に流れ込んできた。其れと同時に廊下の床が軋む音もはっきりと聞こえだし、やがて女子の部屋の前で止まる。簾が上がり、一人の老婆が顔を覗かせると少し不安そうに見つめていた女子の顔に笑みが浮かんだ。
「婆様、どうなされました。今宵は冷えます故、早くお休みになられた方が。御体に毒で御座いますぞ。」
「分かっておりまする、燐姫様。唯。」
老婆は落ち葉色の着物を引きずり、部屋の中へと入ってくる。
「唯、何か。」
燐は其の様子を見て不安げに聞き返した。
老婆は口籠っていたが、やがて静かにその場に座ると袂に溜めていた白い砡を、総て床へと転がした。じゃあっと互いにぶつかり合う鈍い音とともに、白い珠は互いに弾かれ、あちこちへ自分勝手に転がっていった。燐姫はその一つを摘むと、しげしげと眺め、それから婆の顔を見詰めた。その眉は顰められている。婆は頷くと、それをもう一度拾い集めては袂へ入れ戻す。
「数珠の珠で御座います。今しがた勤行をし終えたとたん珠が飛びまして、もしやと胸騒ぎを覚えたので。」
燐は少し声を発てて笑う。
「其れでこの部屋へ。婆様、心配し過ぎですぞ。」
「し過ぎなどと。」
婆は珠を拾っていた手を止めて燐を凝視すると首を振った。
「何か起こってからでは遅すぎます。」
婆はまた眉を顰めた。何度か袂を持って片寄りを直す為、振る。じゃっじゃっと調子よく珠同士が音を発した。
「何がこの身に起こると。このような淋しい所、誰も害を加えよう等とは思いませぬ。」
燐は身を乗りだし、珠を拾う婆の横顔を見詰めながら言った。婆はゆっくり其れに対して頷いて見せた。しかし上げた顔はまだ厳しい。
「確かに。この様に古い神社、盗まれる物等何もありますまい。」
「そうで御座いましょう。」
燐は満足そうな笑みを向けた。
「しかし、」
婆は少し口の端を歪ませると、艶かしい目を燐へと向ける。
「近頃、燐姫様は一段とお綺麗になられました。この寂しい神社の中で、貴女様が一番の宝で御座いましょうに。」
それを聞いて燐は、蝋燭の火が灯るようにぽっと頬を染め、赤い着物の袖を口元へと持っていく。
「婆様、何を申されるか。此処は人目につく所では御座いませぬ、一体どのように私を知り、誰が私を奪うと。」
「油断なさいますな、何時何処で誰が見ているとも限りませぬ。この辺りにはそんな事を企む輩が沢山居りまするぞ。私には分かりまする。それに、このように暗く寂しい所、夜叉や物の怪ですら貴女様の美しさを狙い、奪いに来るやもしれませぬ。」
婆が言うと、燐は笑い声を発てる。
「婆様は敏感になり過ぎじゃ。」
「分かるので御座います。燐姫様、お気づきになりませ、御身の美しさを。」
燐は目を伏せる。その顔は妖艶で、何処か人間場馴れしていた。赤い着物の所為で、燐の肌はより際立って白みを帯び暗闇に浮いている。
婆は燐の傍へと進み寄ると、長い年月によって骨ばってささくれた黒い両手で燐の片方の手を取った。その目に涙が溜まっている。
「貴女様が大きゅうなられる度、此処を去られるのではないかと、婆は何時も心配しておるのです。長きに渡って、貴女様を育てて、貴女様だけが私の生き甲斐なのです。どうぞ、この老いぼれを独りにはなさらないで下さいませ。」
燐は黒く澄んだ瞳で、震える老人を驚いて見つめた。それから柔らく微笑むと曲がって平たい老婆の背を静かに撫で、抱きしめる。
「何を言い出すかと思えば、婆様。燐は何処にも行かぬと前々から申し上げているでしょう。この様に長い間私を育ててくれた貴女をどうして独りに出来ましょうか。」
遠くで雷が鳴る。それと同時に雨音が少し強くなった。風が吹く度に窓の外を激しく雨が叩いた。この神社は格子戸に窓穴がない。普通格子戸は細い木々を組み合わせて碁盤の目の様に作るが、此処は全て二枚の大きな板で上下覆われている。燐の存在を誰にも知られないようにするためだ。
また雷が遠吠えのように唸り声を上げる。部屋は角の方からじわじわと冷気が忍び寄り、二人の着物の裾の辺りまで忍び寄ってきていた。
燐は婆を支え立たせると、眠るように促した。
「今宵はこの雨、きっと冷えまする。婆様、早う寝間へ。お体を毀しては呪術にも差し障りましょうぞ。」
婆は袂で顔を覆ったまま何度か頷き、震えた声で言う。
「失礼を。」
燐はゆっくり首を振った。
「年を取れば、誰もが涙脆くなるものじゃ。婆様、お気になさるな。」
婆は簾の前で一度手をついて挨拶すると、人気のない暗い廊下に姿を消した。
廊下の鈍く軋む音が遠ざかり、辺りはまた静けさを取り戻した。雨音だけが部屋を透明な冷気でひたひたと満たす。床に婆が取り損なった数珠の玉が幾つか落ちていて、蝋燭の光に照らされて赤みを帯びながら長く濃い影を揺らしている。燐はそれを摘み取るとそっと口付けてみた。
香の香りが微かに鼻を掠める。
燐は静かに息を吸うと、蝋の火を吹き消した。
次の日の朝、外の騒がしさで燐は目を覚ました。馬の鳴き声や蹄の音が聞こえ、尋ね人がやって来た事を覚った。窓の隙間を通して小さく男のくぐもった声が聞こえる。この神社は婆の呪術を頼って多くの病人が尋ねてくる。こういう事はそう珍しくはない。
燐は簾を上げ廂に出ると、昨日の雨の所為で湿っぽい木の窓を開け、支えをつける。
男の声がよりはっきりと聞こえる。
「昨日の雨で、道がぬかるみ京を出る事が出来なくなり申した。昨晩泊まった宿でこの神社が病に効くと聞いて、詣でた次第に御座いまする。」
燐は窓から少しだけ顔を出すと、表の様子を窺った。ぬかるみ水溜りが出来た土の上に椿の白や赤や桃色の花が落ち、楓や桜の木の枝が狭い中に生い茂っている庭の向こうに数人の男が婆と話しているのが見えた。其の後ろには鍛錬に整えられ、濡れた様な茶毛の馬に跨った男が居る。澄ました顔で場のやり取りを見ている。恐らく彼が主人なのだろう。
その目は両方の形が整っていて目尻が切れ上がっている。髪は上の方で高く結わえられ、白い頬は寒さで少し赤く染まっている。黒地に白百合の模様が描かれた着物を着ており、袖から出た指は細く白く、華奢だった。その彼の仕種や身なりが高貴な身分を表しているのは間違いなかった。美しい男とはこういったお方を言うのだと思いながら燐は、目を惹きつけられたまま、動けなかった。この神社の中で生きてきた燐にとっては、それは初めて目にする美しい男子だったのである。
ふと、その男子が此方へ目をやった。燐と目が合う。
燐の手は途端冷たくなり、汗がじんわりと額から滲むのが分かった。心臓は大きく波打ち、眩暈を覚える。男子は目を逸らす事なく、此方の様子を伺っている。彼の顔は椿の葉の陰に隠れたり、また姿を見せたりした。燐は窓を閉めなければと必死で考えたが、体が何処にあるのか見失ったような感覚に陥っていた。男子が手綱を引き、馬が此方に顔を向けた。その刹那、体に痺れを感じ、燐はいよいよ自分を見失い始めた。地面が歪み、自分を振い落とそうとする。
その時だった。婆が男子の視線に気づき、注意を逸らす様に神社の境内の中へと一行を導いていった。男子もそれに同行して中へと姿を消す。燐はその瞬間我を取り戻し、慌しく窓の支えを外した。勢いよく窓が閉まる。するとその場は暗くなり、先程までの騒々しさは遠のいてゆく。心臓はまだ厭に波打ち、手はべっとりと汗ばんでいた。何かいけない事をしてしまった様な、今までの生活にとって具合が悪い何かが起こるようなそんな思いが燐へと襲い掛かってくる。
「この予感、当たらねば良いが。」
燐は呟くと、胸を押さえつけたままでその場に蹲った。
昼過ぎになって、漸く婆が燐の部屋へ顔を出した。燐は机に向かい、書の練習に励んでいる途中であった。
小筆を置き、微笑を浮かべる。
「婆様。」
「燐姫様、なぜ故直ぐに窓をお閉めになられなかったのです。」
燐の言葉を遮り、婆は強くそう言った。その目は鋭く燐を見つめている。燐はそれを避けるようにして、目を伏せた。
「思うように、体が動かず。あれ程お綺麗なお方は、初めて目にしたもので御座いました故。」
燐は先程の眩暈を思い出し、下腹部がじんと重くなるような感覚を覚える。婆はあからさまにいらいらとした様子を浮かべ、燐の前に座った。其の手には昨日とは別の、普段の勤行の時に使う、手垢で黒光りしている木製の数珠が握られたままであった。
今日は晴れていたが、この部屋は西日が当たる為、今はまだ暗い。
「綺麗なお方。確かに。しかし解せませぬ、なに故体が動かぬと。」
「分かりませぬ。私にも。」
「これで、この神社に美しい女子が居ると、都中に広まりましょうぞ。」
「何を仰られるか。そのような噂が広まるとは。」
「お方は都を知らぬ故、噂の恐ろしさも分からぬのです。」
「しかし。」
「噂は必ずや広まりましょう。そうしてあの者達もまた、貴女様を奪いに。」
「婆様、奪うなどと。あのお方が此方を見ていたかどうかも解りませぬでしょうに。」
「恋をなされましたか、燐姫様。」
燐が制そうと発した言葉を鋭く遮り、婆は燐の戸惑った顔を見つめたまま年寄りとも思えぬような強い声で口早に問う。燐はその威圧感を感じ取り、懸命に首を振った。
「恋等、なに故にその様な事を。婆様、ただ私は言い知れぬ恐怖を感じたので御座います。唯、其れだけに御座います。」
「恐怖。恐怖と。」
婆は憤りを止められず、息荒く繰り返しそう言うと、肩で一度大きく息を吐いた。燐は大きく頷き、言う。
「何やら、体が無くなってしまったような。今までに感じた事の無い感覚故、とても恐怖を。これは決して恋等と。」
燐はそう言うと口を噤んだ。側の小筆を弄る。婆もまた、噤む。
長い沈黙が流れた。部屋の中に外の光がそろそろと差し込み、燐の顔の輪郭を柔らかく浮き上がらせる。婆は光に追いやられ角に溜まった影に身を潜めている。その目だけが光を反射し此方の心を推し量っている様にぎらぎらとしていた。燐はそれを見た瞬間、婆の怒りが本物だと感じた気がして素早く目を逸らす。外は冷たく澄んだ空気が辺りを包み、静寂だった。空は薄い青で、雲は見当たらない。黒い点となった鳶が遠くで大きな円を描いて飛び交っている。神社の周りには椿が一斉に咲き、暗い林に色を落としていた。
その沈黙を先に破ったのは婆の方であった。
「燐姫様、あのお方には魔物がついておりました。祈祷により去った様に見えましたが、この婆の力ではもしや取り除けなかったかもしれませぬ。」
婆は数珠を握る手に力を込めた。
「それ程強い魔物と。」
「その魔物、貴女様の美しさに気づいた様子。その為で御座いましょう、その胸騒ぎと感じる恐怖は。貴女様にも多少の祈祷師の血が混ざっているので御座いますもの。」
燐は身震いをし、小さく蹲る。
漸く高ぶった感情を抑えたのか、婆は燐の小さな背を優しく撫で、手にしていた数珠を何度か振りながら呪いの呪文をぼそぼそと口ずさんだ。
祈祷師の血。
自分は婆の孫なのか定かでない事を燐は思い出した。両親の顔は知らない。気付いたら婆と二人でこの屋敷で過ごしていた。
燐は婆の腕を掴む。忙しなくその袂を捲ると黒く皺だらけの肌が見えた。燐の目に涙が溜まった。其れが何故なのか燐には分からなかったのである。
つづく