伍
……
…………?
どれだけの時間が経ったのか。
一分か、一時間か、一日か。それとも、もっと多大な時間が経過したのか。
死ぬ寸前、まるで抗い難い睡魔に委ねるように、眠りに落ちるかの如く意識が遮断された。
青年はその時確かに、自分は死んだのだと、そう漠然と感じたのだ。
しかし、蓋を開けて見れば何時の間にかボンヤリとだが、確実に意識とも呼べる何かを感じている自分に気がついてから幾星霜。
比喩であるが、時間の感覚を失っている状態でかつ、主観でそう感じたのだからあながち間違いでもないだろう。
それは複雑な思考をするまでには至らず、まるで起きぬけの半覚醒状態のように、時間の感覚すら曖昧だ。
死んだ筈なのだ。それならここは死後の世界なのか。
感覚もなく、ただぼんやりとした思考だけしかできないこれが死後の世界だと。
それは何と恐ろしくおぞましいのか。肉体があれば、思わず叫びだしていたに違いない。
そこでふと気づく、自分が随分と複雑な思考を繰り返している事実に。
どれくらいの時間を掛けてここまで至ったのか。あるいは回復したと呼ぶべきか、兎に角この状況に至ったのかは分からない。
それでも常のような思考が出来るというのは、恐怖であり救いであった。
半覚醒であればまだこの暗闇の世界で、思考だけしかできず、他の一切をおこなえない恐怖に耐えられただろう。
だがそれは停滞であり、そこに存在しているとは言い難い。
今のように確固足る自我を獲得してこそ意味はあるのだと、それが青年の生まれて物心ついた時からの持論であった。
今にして思えばそれはもしかしたら、あの知らない知識などと同じような理屈だったのかもしれない。
こうして複雑な思考が出来るようになったのは、誇張抜きにしても素直に喜ぶべきことであった。
が、反面。それはこの何時まで続くとも知れぬ思考だけの世界、この感覚もない暗闇の世界で、発狂するまで孤独に耐え続けなければいけないということである。
それは正しく地獄とも呼べる責め苦だ。むしろ此処こそが地獄なのか? そうじゃないとしても、到底耐えられる筈がない。
希望は絶望の苗床であると言う。成る程、と青年は思った。
自分は今でこそあの絶望の少女を恨んではいないが、それでもその存在が絶望の具現であることに変わりはない。
それはつまり、今の状況こそが少女の少女足らしめるその絶望による力なのではないか?
と、思考しかやることもないので、色々と仮説を立ててみるのだが、今一釈然としなかった。
仕方なく今度は何故少女が泣いていたのか、その事について青年は思考してみることにした。
どうやらあの少女。いや、神様は青年を知っているらしかった。
ただそれは“今の青年”ではなく、数えるのも馬鹿らしくなるくらい転生? とやらを繰り返してきた過去の青年を知っている、ということらしい。
つまり、今まで不思議に思っていた感覚や知識などは、その青年じゃない転生以前からの経験によるものだったのだろうと、ここに至ってようやく思い至る。
それは少女が浄化の炎という言葉を用いていたことから、恐らく間違いはないだろう。
そしてこうも言っていた。確か、自分で一京目の転生だ、と。
想像すら及ばない数字であった。一京、兆の一つ上の桁である。どうやら人等の知的生命体以外も含まれているらしかったが、それでも法外も法外。
一般的と呼べばいいのか不明だが、魂が普通どれだけ歴史を重ねてるのか分からない為比較のしようもないのだが、それでも恐らく非常識な数値であるに違いない。
そこで何故転生の回数を知っているのかと疑問に思う。
神様特権でもあるのか、そうでないのならその転生を見届けでもしない限り無理である。
一京回も? と考えたところで感覚もなく、肉体すらない筈なのに、背筋が凍えるような思いを感じた。
神とはそれほど気が長いのか? 青年の常識で当て嵌めればそれは最早妄執、あるいは狂気の沙汰とも呼ぶべきもの違いない。
一京。一回の生が一年なら一京年。惑星の寿命すら優に超越する時間である。
むしろその生の回数で星の生命数を凌ぐかもしれない。
無い頭を振るように思考を追い払う。
嘘か真は兎も角、己がそれだけの回数、転生してきたという自覚は無論無い為、この思考は意味がなかった。
思考も脱線してしまっていることに気づき、改めて少女の事を考える。
仮に少女が一京回の転生を見守ってきたとしたら、理由はなんであろうか?
何かの約束? 恨み? それとも――愛?
どれも違うようでしかし、正しいようにも思える矛盾。
その後も様々なことに思考えお巡らしたが、結局分かったのは少女が青年の遥か昔の転生体に、何かしらの興味を持ち、ずっと見守ってきたのであろうということ。
そしてどうやら前回の自分は相当に滅茶苦茶であり、かなりの実力者であったらしいということ。
何故なら少女の台詞がそれを暗に示していたからだ。
つまり、情報が整理されただけで何一つ分かりはしなかったということであった――
ふと。思考だけの存在に成り果てた筈なのに、奇妙な疲れを感じていることに気づく。
まるで……そう、あの少女によって死の眠りへと誘われたときと同じような。
既に死んだ身だと、抵抗することもなくその衝動に身を委ねた――――
「めよ……! …ぬ…か!」
誰かが呼ぶ声が聞こえた。
どこか遠く、不透明なそれは覚醒と深淵の狭間でまどろんでいた意識を刺激する。
「……きよ! え…し!」
再び声が届く。
その声に反応してか、少しずつ意識が鮮明になる。
理由は不明だが、起きなくてはいけないという、何か強迫観念にも似た衝動が沸きあがっていた。
しかし、意識はまるで丈夫な鎖で雁字搦めにされたかのようにハッキリしない。
今すぐ覚醒したいというのに、この穏やかな眠りもまた心地がよいのだと、相反した思いが巡る。
「起き…よ! わらわ……待たせる…ない!」
声が段々とハッキリしてくる。
それはどうやら女性、というにはもう少し若く高い音階。少女と呼ぶに相応しく、耳に心地の良い調べだ。
はて、と。青年は疑問に思う。この声に覚えがある、と。
つい最近、いや、遥か昔。駄目だ、時間の感覚が麻痺してしまい、時の流れを把握できない。
それでも恐らく異性の中では最も最近に、この声を聞いたような、と青年が考えて――
「ええいっ! いい加減起きぬかエニシ!」
「ふへぃっ!?」
直ぐ側から響いた暴力的なまでの声量に思わず、跳ね起きるように立ち上がる。
まるで長いこと身体を使ってなかったかのように、よろりとよろめいてしまう。
そこで思考がようやく追いついた。
「肉体……だって…?」
あり得ざる現象、自分は死んだ筈なのだから、と。まるで狐に化かされたかのような心境であった。
思わず片手で頬を抓ってしまう。すると鈍い痛みが広がった。
つまり、感覚がある。地面を踏みしめる感触がある。
何よりあの暗闇の空間ではなく、景色がある!
「ははっ、ははは、ははははは! 生きてる、生きてるぞッ!!」
両手を翳す、そうすればちゃんとした生身の肉体で構成された手が、腕が!
様々な景色が瞳から網膜を介して脳に映像として伝達される!
五感全てがある。匂いが嗅げる、物を感触を確かめられる、呼吸が出来る。
知らなかったのだ。生きているということが、何かをするということが、出来るということが、これ程までに素晴らしいものなんだと。
まるで自分じゃないかのように、騒ぎはしゃぎ、命一杯に今を感じる!
理由は不明だが、何故か衣服が変わってしまっている、が気にせずに地面に転がり回る。
何処かの草原なのか、自然豊かな原っぱは青々とした風景を視覚と脳にこれでもか、とうったえてくる。
それがまた嬉しく、より一層激しく転がり回れば草や土が顔に付き、乾いた土の匂いが鼻腔一杯に広がる。それが更に嬉しい。
あの暗闇では何も感じれなかったのだ、どんな些細なことでも今は素晴らしい!
「むっ。エニシは毎回嬉しそうな反応をするな。もっとも妾には逆に辛いのだが、の……」
そこでようやく青年が別にもう一人、それも自分を現状に状態にしてくれたであろう、そうでなくとも起こしてくれた筈の女性が居ることを思い出した。
更には何故か名前まで知られているらしく、取り敢えず常ならざる失態に謝ろうとして。
振り返ったのと同時、少女の口元が動く。
「――――――だ」
――イマナニヲイッタノカ?
脳がその事を認めるのを拒否したのか、少女の。
いや、何故此処に居るのかは不明であったが絶望の少女、自称神様から告げられた言葉が、まるでモザイクでも掛かったかのように聞き取ることが出来ない。
「もう一度言おう」
やめろ、ヤメロ!
聞きたくない。聞きたくない!
「エニシ、そなたは――」
あの圧倒的な気配がしない。
それなら、と。その口を塞いで飛び出るだろう言葉を防ぎたいのに、身体は硬直し、指一本動いてくれない。
少女の口が開く、言い聞かせるように、ゆっくりと、艶やかな舌に音を乗せて――
「死んでおるのだ」
――絶望の言葉を吐いた。
「ハハッ、だって、ほら! 手だって足だって感覚だってあるんだぜ? それなのに……それなのに、俺が……俺が死んでいるだって? じゃあこの身体は何だって言うんだ!? 血の通った肉体だぞ!?」
まるで掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄り、その端整な顔に唾を吐き散らすかの如き勢いで一気に捲くし立てる。
答えは、ない。
無言であった。少女は喋らない、語らない。
青年の苛立ちが高まり、思わず掴みかかろうとして――
少女の顔が泣きそうに歪んでいることに気づいてしまった。
ああ、まただ、と思った。
死ぬ間際にも見た表情であったそれは、酷く心をざわめかせる。見てて痛々しくなる。
「わりぃ……」
その一言が精一杯だった。
普通なら自分を殺した張本人だ、もっと怒鳴り散らすなりなんなりするのが正しいのかもしれない。
しかし、それは問題の後回しに過ぎないのだ。
少女は言っていたではないか。変な籤に当たったのだ、と。つまり、少女が殺さずとも結局は死んでいたのだ。 それは遅いか早いかの違いでしかない。
「すまぬ……そなたには毎回慰められるな」
そう言って全裸の少女は腕でごしごしと目元を擦る。
終わった後に残ったのは真っ白な肌の影響か、赤く腫れてしまった目元だけであった。
それが余計に青年の心をざわつかせる。
気を抜けば抱きしめていたかもしれない。
「これからそなたのこと、そして現状について話すゆえ、聞く気があるのならば座るが良い」
そう言って何時の間に出現したのか、青年の隣にぽつんと存在を主張する木製の椅子を示す。
真剣な表情の少女に釣られ、青年もまた気を引き締めるとそれに黙って座り、目線だけで少女に意思を伝える。 そう、青年にはそれを聞く権利があり、少女には話す義務があるのだから―――
後書き
今回は予定と大幅に違う内容で書き始めてしまい、お陰で色々ガタガタになってしまいました^^;
広い心で見詰めて下さると嬉しく思いますw
迷宮編、というか本編? までもう数話だけクッションとして挿むのでお待ち下さいませ。