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帰れない

作者: Nichika
掲載日:2026/06/27

 大きなバスの揺れに頭がガクンと後ろに揺れ、目を醒ますと、窓の向こうに通学路の大階段が見えた。

 慌てて降車ボタンを押し、寝言やいびきをやらかしていないか気にしながら、急いで降り、バスから見えない住宅街へと入って行った。


 家まで歩いて十五分の距離。人もまばらな夕暮れ。

 背中のカバンを背負い直したが、重いカバンに重心が後ろに引っ張られ、仕方なく猫背になる。そうすると、顔が上げにくく、自然と地面に視線が落ち、気持ちも沈み、とぼとぼと家路に着くことになる。これが、毎日続いている。

 駅が近かったら楽なのに。

 期待していた家から自転車で通える偏差値の高い学校には入れなかったので、こういう時、もっと勉強をしておけば良かったと後悔する。

 仕方なく、最寄り駅まで十五分のバスと、電車で一時間半掛かる都心の私立高校に進学した。

 部活は厳しいが楽しく騒げる友人は多く、それだけが原動力で頑張って通っている。

 高学歴の両親は、今の学校をあまりよく思っていない。そのせいで、家庭内の雰囲気はあまりよくない。

 大学受験は二の舞になりたくない。

 学校の推薦枠に入れるように、もっと、勉強しないと。


 坂や階段の多い、丘陵を切り開いた都の小さな郊外。

 筋肉痛の足を無理矢理一歩づつ上げて階段を上がる毎に、ハムストリングに重力がのしかかる。

 なんとか、踊り場のある半分まで上り、一息吐こうと上段を仰いだ。

 階段を上り切れば、右側に馬頭観音がある。こんな坂ばかりで平坦の少ない道を、昔の馬が重い荷物を乗せて歩いていたのかと思うと気の毒になる。

「あーっ、もう、カバン重いよ……」

 気持ちを言葉にしたら、一瞬気が晴れるが、また、肩に感じる重力にがくりと頭を垂れた。

 連日の体育祭の練習で足が疲れて早く家に帰りたいのに、毎日上り下りしている急勾配の百段の階段がいつもより長く感じる。

 体育祭の後はテストも控えているから、背中のカバンには殆どの教科の教科書やワークを多目に入れてしまっている。

「早目にテスト勉強しておけば良かった!部活が忙しいせいだ!」

 人気のない事が分かっているので、地面に向かって盛大に独り言を言う。

 足の疲ればピークになり、ちょっと休憩をしようとカバンを床に降ろし、腰に手を当てた。

 清涼感のあるジャージを着ていても汗が滴り落ちて来る。夕暮れでも、夏場はジメジメして風も生温い。ポケットからハンカチを出し顔や首の汗を拭き取り、お腹の生地をパタパタと引っ張って、一時不快感から逃れる為だけの風をお腹に送る。

「ほんと、あっつい」

 喉の渇きを潤す為、カバンからペットボトルを取り出した時、階段の上からスーツを着た男性が降りて来た。

 ゴクゴクと喉を鳴らしながら夢中で水を飲んでいても、普段から人気のない住宅街だ。降りてくる人に妙に警戒してしまう。

 それと、微かな不気味さも。

 ペットボトルに口を当てたまま、目だけ動かし確認した。

 

 少し離れていた。


 確かに男性だった。


 背が高かったから目線を上げた。


 革靴の足音はした。


 顔が見えなかった。

 よく、見えなかったのではない。

 

 顔が、見えなかった。


 異常な速度で脳が回転する。

 考えるな、という恐怖と、目を逸らすな、という本能の間で感情が激しく揺れ動く。

 

 あんなに至近距離なのに。

 顔が、無かった。


 足音はしたから足はある筈だ。

 もしかして、私、まだ、寝惚けてる?

「いやいや、おかしいでしょ」


 でも、顔が、無かった。


 階段を軽快に降る足音が遠ざかる。

 汗がピタッと止まり、一気に血の気が引き、じわじわと今の状況を脳が噛み砕き始め、身体が震えた。

 違う。見間違えた。

 水を飲むことに夢中になり、顔まで気に留めなかっただけ。

 絶対、絶対そうだ!疲れていただけ!絶対そう!

 力が抜けた手から、ペットボトルが滑り落ちる。


 !!!


 撒き散る水音と、階段にぶつかるボトルの無機質な音に耳を澄ませ、身体を強張らせ息を殺した。

 下の方へ、さっきの男性の方へ転がり落ちて行く。

 

 

 恐怖に身体を硬直させ、震える手を祈るように合わせた。

 そろそろ下に着くであろう、通り過ぎた男性の軽快な足音がピタリと止む。


  


 ぎゅっと目を瞑る。


 気付かれた!どうしよう!どうしよう!どうしよう!


 こっちを、見ている?!

 走って逃げる?!


 誰か助けて!!


 こんな時に、小学生の時に流行った都市伝説を思い出した。

 逢魔が時、あちらの世界とこちらの世界が自由に行き交える時間。

 擦れ違う人の顔が見えなかったら、それは、人ではないという。

 

 教えてくれたのは、仲の良かったひまりちゃんだった。

 ひまりちゃんは、不思議な話が好きだった。

 楽しそうに話していた。

 その話を聴くのが好きだった。

 学校の七不思議もSCPも、一緒になって、怖がった、楽しんだ。


 ある日、ひまりちゃんはハブされた。

 理由なんて、ない。

 ただ、そういう空気になっただけ。


 グループから話しかけられなくなったひまりちゃんは、ぼっちになった。

 どんどん大人しい子になった。

 机の前を横切る時、時々、ひまりちゃんに話しかけられた。

 二言、三言、応えた。

 前ほど、話が続かない。

 ひまりちゃんは、泣きそうな顔をしていた。 


 私も、ひまりちゃんに話しかけづらくなった。

 話しかけなくなった。

 前まではそれなりに気にしていたけど、段々気にならなくなった。

 

 ある日、ひまりちゃんは、集団で無視をされるようになった。

 ひまりちゃんは、何も悪いことをしていない。

 

 台風が近付いて来ていた時期で、雨が多い日が続いた。

 夏だった。

 クラブ活動が遅くなり、教室を最後に出た。

 屋上に続く階段の途中、ひまりちゃんが蹲っていた。

 泣いていた。

 酷いいじめにあったと聴いていた。

 

 居づらくなって立ち去ろうとした時、足音に気付いたひまりちゃんが顔を上げた。

 上履きは、びしょびしょだった。

 ランドセルに着いていたパンダのキーホルダーの首から下がなかった。

 ひまりちゃんが、大好きな弟がくれたと嬉しそうに話していたやつだ。

 

 目付きが鋭かった。

 私を、じっと見ていた。

 先生が駆け付けて来るまで、動けなかった。


 

 


 階段下の足音が遠ざかる。

 完全に足音がしなくなったところで、思い切って目を開け、振り向いた。

 

 誰も、いない。

 

 何故そうしようと思ったのか、背後を気にしながら、階段の下の方まで落ちてしまったペットボトルを急いで拾いに行った。

  

 カバンを置いてきた所まで戻ろうと、再び顔を上げると、視界の端に、赤いランドセルが過った。

 階段から三十メートル先に交差点がある。その、電信柱の影から小学生が、じっと私を見ている。

 

 あれは、ひまりちゃんだ。


 嘘!嘘!嘘!


 顔ははっきり見えないけど、絶対に……ひまりちゃんだ。


 階段を駆け上がり、急いでカバンからスマホを取り出した。

 誰かに繋がっていないと怖くて、通話をしながら走って帰ろうとLI MEでお母さんに通話を入れるが、呼び出し音が虚しく鳴り続ける。

 階段を登り始めて十五段目位で気が付いた。


 風景が全然変わらない。

 

 また一段、また一段と上るが、同じ場所から動いていない事に気付く。


「あー!!!」


 恐怖心を霧散しようと思いっきり声を出しながらがむしゃらに駆け上ったが、無情にも景色は変わらない。


「お願い。誰か出て……!」 

 片っ端から家族と友人に通話し、出ないとメッセージを残す。

「お願い!誰か気付いて!!」

 何度も、何度も祈った。

 それでも、メッセージひとつ、コメントひとつ来ない。

 ぼろぼろ落ちる涙で液晶画面が見辛くなっても目を離さなかった。

「お願い……お願いします……誰か」


 影が動いた気配がし、ゆっくり振り返る。

 電信柱の後ろにいたひまりちゃんが、前に出ていた。

 真っ直ぐ立って、私を見ている。


 geRealの通知が鳴った。

 震える手で何処にいるか分かるように、目一杯背景を入れ、写真を撮る。

 助けて、今すぐ連絡して、と投稿する。


「お願い。誰か、気付いて……」

 スマホを握り締め、また、泣いた。

 ひまりちゃんは、近付いて来ない。


 遠くの方から中年のおばさんらしき人が、真っ直ぐこっちに歩いて来るのが見えた。

 ひまりちゃんに警戒しながら腕を大きく振った。

「すみませ……ん」

 助けを呼びたいのに、恐怖から声が出ない。

 お願い!気付いて!!


 必死に手を振っても気付いてもらえない。

 そのおばさんは、ひまりちゃんの所まで来ると、小さな肩に手を置き、ひまりちゃんと一緒に、私を見た。

 授業参観で見たきりはっきりと覚えていないが、あれは、あの人は、きっと、ひまりちゃんのお母さんだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ひまりちゃん。ごめんなさい……」

 階段に座り込んで項垂れた。

「無視してごめんなさい。見て見ぬ振りしてごめんなさい」

 一生懸命学校に来ていたのに、まだ、子供だったのに……。

 怖くて顔も上げられない。

 スマホの画面は何も変わらず、私はこんなに死にそうなのに、誰にも気付いてもらえない。

 あの時、ひまりちゃんの様子を親に話していれば、ひまりちゃんは救われたかもしれない。

 一人になったひまりちゃんに話しかけられた時、ひまりちゃんは勇気を出して話しかけてくれたのかもしれない。

    

 午後五時のチャイムが鳴り響いた。

 ひまりちゃんが、階段に、こちらに向かって歩き出した。私に向かって……。


 このチャイムが鳴ると、帰宅時間だった。

 ひまりちゃんは滑り台で遊ぶのが好きだった。

 二人で走って帰った。

 途中、公園に水筒を忘れて来たのを思い出すと、ひまりちゃんが走って取って来てくれた。

 本当に、優しい子だった。

 ひまりちゃんは、大好きな友達だった。

 


 階段の下から見上げてくるひまりちゃんは、そこから動かない。

 やっぱり、顔が無い。


 

 試しに一段、また一段と、ひまりちゃんを見ながら後ろ向きに上ってみる。

 ひまりちゃんは、上って来ない。

 ゆっくり一段づつ上がると、ひまりちゃんが、うふふ、と笑った。

 

 カンッという音がして、上から石が跳ねながら落ちて来た。

 振り返る。

 


 ひまりちゃんが、軽快な足取りで降りて来た。

 黒髪を揺らし、パンダのキーホルダーの着いた赤いランドセルを背負い、あの時の姿のままで降りて来る。



「いやー!!!」


 逃げようと身体を捻った拍子にカバンの重みで足を踏み外した。

 踏ん張った足首が激しく痛む。



 落ちる!!死ぬ!!


 視界が階段下でいっぱいになり、手を突き出し身構えた。 

 

「ゆなちゃん」


 耳元に、ひまりちゃんが呼ぶ声がし、有り得ない力強さで肩をぐいっと引かれ、落ちるのを免れた。


「ゆなちゃん」


 怖い!怖い!怖い!


 はっきりと、気配を感じる。

 肩は小さな手に掴まれたまま、振り返る事が出来ない。


「ゆなちゃん」


 三度目に呼ばれた時、肩に固定されていた手が、首に移った。

 もう、諦めるしかない。


 振り返ると、今度は、顔があった。

 間違いなく、記憶の中のひまりちゃんだった。


 子供が絶望した顔というのを初めて見た。

 その顔に浮かんでいるものは、言葉では言い表せない。

 生まれてから一度も笑った事がないような硬質な顔、太陽の陽を浴びた事がないような真っ白な顔。

 生きているのか死んでいるのか分からない瞳。

 そして、自分が成長したせいか、ひまりちゃんは、とても、小さかった。

 信じられない。

 あの頃、こんなに小さい身体で、たった一人で、いじめに耐えていた。

 あんなに怖がっていたひまりちゃんへの恐怖心は、いつの間にか消えていた。 


「ひまりちゃん……」


 名前を呼ぶと、ひまりちゃんが泣き出した。

 大きな声で、わんわん泣き出した。

 白かった顔が段々と赤くなっていく。

 生気のない瞳が、涙で潤む。

 自分が、ひまりちゃんが、あまりにも哀れで、抱き締めて一緒に泣いた。

 抱き締めても、ひまりちゃんと過去には戻れない。

 あの時、一緒に泣けば良かった。

 あの時。

 ひまりちゃんの血の通った顔を見て、言うべき事が分かった。


「ひまりちゃん、一緒に帰ろう」


 しゃくり上げながら、ひまりちゃんが徐々に泣き止む。


「毎日、一緒に帰ろう」

 

 もう、鋭い目付きのひまりちゃんはいない。ひまりちゃんの瞳は、期待にきらきらと輝き始めた。

 涙の引っ込んだひまりちゃんの笑顔は、この世のものとは思えない美しさだった。


 これから毎日、二人で、この階段を上って一緒に帰る。 

 そう、約束した。


 






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